水源の里 市茅野のシャガ
和知と上林谷との一体性を連想させるものとして、十倉の河牟奈備神社にある「阿上社」石碑がある。
永久二年(1114)の銘の真偽はここでは不明とするほかない。ただ「阿上社」は和知に複数ある神社の名であり、和知との間に何らかの関係が想像される。
(村上佑二「金石文の再発見-阿上社石碑について」『綾部史談』86号1967年7月参照)
『和知町誌 第一巻』1995年では、
「和知の四社と上林の摂社阿上社の間に何らかのつながりのあることが推定される。すなわち、和知の惣社である本庄阿上社が、農産と養蚕の神として古来和知谷において尊崇され、和知では三社に分祀され、さらに地形的に隣接する上林谷に祀られるようになったと考えることは、無理な推論ではないだろう」(717頁)
としている。
阿上社は和知から上林へと山を越えたものであろうが、一方、上林から山を越えて来られたかもしれない仏様として、養立の薬師堂(養隆山瑠璃光寺)がある。この薬師堂の境内には文化八年(1811)の蚕供養塔がある。
ここの薬師像に関して以下の情報がある。
「ここの本尊(薬師像)は、かつて上林谷に祀られていたものを某氏が一人で背負ってこの養立に来て移し祀ったいわれがある」
「毎年、二月上旬の休日には村の老若男女が相集い、盛大にお祀りを祝う。当日、洗米で作った「オシロイ餅」を供え、最近では数少なくなった「数珠繰り」も伝承されており、一年を通じての安全と災難除けの祈祷が行われる。念佛を唱えながらの昔そのままの行事の姿が残されている。」
(和知町教育委員会『和知の道-むかし物語』16頁)
この「かつて上林谷に祀られていた」というのが本当であるならば、上林谷のどこに祀られていたか。
武吉は犬越峠をはさんで西河内との地理的一体性があり、その山中には、かつて荊城山薬師寺があった(丹波志何鹿郡部)。
養立に近い薬師ということでまず想起されるのはこの荊城山薬師寺であるが、本尊薬師如来はいま、福知山の丸尾山圓應寺にある。
「荊城山薬師寺古跡 武吉村 深山ニ古跡 字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍 五丈斗滝アリ 天正年間明智光秀福智山城エ引 諸仏残リ村エ引取 三間四方薬師堂安置ス 居仏三尺斗観音勢至像五尺斗 庵ノ本尊大日如来ヲ合テ三尊 上林七里ノ谷勝テ大仏也 其外古仏多シ 吉祥院麻呂子親王七仏薬師ト云云」(『丹波志何鹿郡部』綾部史談会版63頁)
「時うつり明治初年となり廃仏毀釈の厄にあい堂は壊され諸仏まさに処理されようとする寸前、通り合わせた福知山の商人に薬師如来観音勢至菩薩の三体は買とられ、後に笹尾の円応寺境内に祀られて今日に至った」(井上益一「玉泉寺と大日如来」『綾部の文化財』第23号、1986年3月1日)
次に、西河内の中での養立の位置に注目すると、上林から山を越えてくる経路としては忠を経て忠峠(タラ坂)、もしくは浅原を経て堀尾峠の2つが残る。堀尾は養立の地名である。
多数の寺坊を擁していた君尾山や蓮ヶ峰のあたりの遺仏なのだろうか。
大栗峠から鉢伏山までの尾根には堀尾峠、忠峠(タラ坂)、稲葉坂、犬越峠などの峠が並んでいる。
かつてこの尾根のどこかを、薬師様を担いで越えた者が居たのだろうか。
そして薬師様はもともと、上林のどこにおられたのだろうか。
養立の薬師堂(養隆山瑠璃光寺)