水源の里 市茅野のシャガ
関屋と舞鶴の多門院との間にある上津は、大田和と同様、昭和28年の台風が廃村の契機になったという(桜井帯刀「廃村の村『上津、大田和』について」『若越郷土研究』11-3、1966)。
大田和より大きな地滑り地形の上にある村である。
田畑や宅地の面積も大田和より何倍も大きかった(桜井1966)。また戸数は昭和で7戸、江戸時代には9戸あった(同)。
桜井1966は次のような伝え話を紹介している。
「ある時、上津村の者と隣村多門院村(京都府舞鶴市多門院)の百姓とが口論したが、多門院側は「上津全部寄せてみた所で八石や、俺の家にもまだ足らぬやないか」とせゝら笑うと、上津側は「それならば八匹の牛は居るかや、居りはしまい。どうだ負けたやろう」とやり返したという」。
今は林道がついているが、その下半分が田畑、上半分が居住地であったと考えられる。田畑の跡らしい土地は大田和と同様、繁殖力の強い竹に覆われていた。
円形に積まれた石積みがあったが、炭焼の跡であるか、祠の跡であるか、判然としなかった。
居住地の跡は石垣があり、瓦や茶碗、石の臼などが散在していた。
歩いていくと意表を衝かれたのは、樹々の合間に土蔵がひとつ残っていたことである。
集落内の道の縁には石仏がいくつか見られた。
「物産として竹、竹ノ子、柿、茶の栽培、製炭等が生業であった」(桜井1966)といい、竹の存在は上記のとおりであるが、土蔵の前には茶の木も見られた。シュロの木の存在は大田和と共通していた。