水源の里 市茅野のシャガ
上林から見ると山ひとつ越えた程度の地続きに廃村がいくつかある。
高浜の山中、古い地形図に記された大田和の名は、山の上に人が住んでいた頃の生活や、村々の来歴について関心を呼ぶのだった。
高浜町西南部を地図で見て等高線の様子を眺めると、所々等高線の間隔が広くなって、いわば地図の白く見えるところがある。
牧山や宝尾、上津はその明らかな例であるが、それらと並んで比較的小さな白い空間が、横津海の奥にある山中の台地、大田和である。
その名は緩傾斜地を示す典型的な地名用語と考えてよい。
山の斜面がすり鉢状に崩落して出来た天然のテラスであることは、地図よりもむしろ空中写真をみたほうがわかりやすい。
東舞鶴から青葉山の存在感に打たれながら吉坂を越え、六路谷の名に木地師の面影をたどりつつ、関屋に至る。
横津海の奥の林道は路上に落石も多く、交通量は多くないことが見てとれた。
大田和への最初の訪問は雨の中である。
林道から山道に入る地点は標高140m。大田和は250mなので約100mを上昇することになる。
谷道だが、堰堤が二箇所にあり、その地点では旧道は失われていた。
そのほかも崩落によって歩きにくくなっているところや、渡渉のため谷川の水のなかを歩く場面があった。
左岸から右岸に移動した道はやがて、谷の分れで左の谷に入り込む。小さな滝が繰り返している。
山の産品を担いだ村人が歩いたであろう立派な道であるが、やがて何度も谷川を渡り返すようになり、滑りやすく不安定になる。
それでもさらに進むと、右手上方の空間が不思議な明るさを見せ、樹々の枝越しに光が眩しくなる。
その感じは山城の石垣の下に立った感じにも似て、昔の人が初めてこの台地を見いだした時の発見の感覚を思わせた。
谷底から斜面を這い上がると、村の玄関口と推定できる深い掘りの道があって、これが地図で見た大田和に違いなかった。
かつて生計の糧の一部分を構成したであろう竹が今は宅地や田畑の跡にまで繁殖し、植林もあって、村は日陰の中にあった。かつては草に覆われていたであろう地面も日陰となり、却って土が露出していた。
戸数5戸、廃村後昭和35年の時点では「廃屋二戸と、土蔵二戸とが取り残されていた」とのことである(桜井帯刀「廃村の村『上津、大田和』について」『若越郷土研究』11-3、1966)。
今となっては建物は一軒も残っていなかったが、歩くと瓦や茶碗が地面に散在して雨に濡れていた。
さらに見て回ると、家跡の石垣が残っており、庭木が竹や植林のはざまに佇立して、今と昔の時間が交錯したような不思議な感覚を起こさせた。
集落のある平地はやがて山の斜面につきあたるが、その山裾も何段階にも整地されていて、おそらく畑に利用されていたらしかった。
シュロの木も見られた。
大田和では田より畑の面積の方が大きかったという(桜井1966)。
大田和の集落は左岸にあるが、右岸にも小さな平地があって、これが桜井1966に記す愛宕社の跡なのかもしれなかった。
集落の奥には大宝寺の跡があるはずだったが、確実にそれらしい土地は見いだせなかった。
ただ集落の奥で谷が分れているその谷と谷の間の尾根には道がついていて、どこに行く道なのか気になるのだった。