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京都里山讃歌

KYOTO SATOYAMA SYMPHONY

水源の里 市茅野のシャガ

宝尾と摩野尾山一乗寺[03]

Lost Ichijouji-temple around the Ruin of Takarao Village, Ohi, Fukui, October 2009

 

 

 

 

 

 

 

宝尾と摩野尾山一乗寺[03]


若狭川上にある宝尾は忘れがたい山上の廃村である。

いちどは南の川上から宝尾を訪ね、いちどは北の大田和から訪ねた。

川上から宝尾へと至る道は植林のなか斜面に取り付き、尾根に至ると雑木のなか、次第に彫りの深い溝のような道となる。



瓦の破片が落ちており、その瓦がかつては当然、屋根の上にあったことを思うと寂寞たるものがあった。


道の端の畝のような盛土の表面には、角石が高密度に貼り付けられていた。

自然にそうなるはずはなく、人工的なものと思えた。


やがて雑木の間に竹の混じるのが見えてくると、もう宝尾の村落跡である。


階段状に整形された田畑の跡や家々の石垣。





そして割れた石臼が多数転がり、茶碗や瓶が昔日の記憶をとどめている。


最初に訪れた雨の日の心象や、その後の晴れの日の心象。

宝尾の風光はその都度ごとに異なる色合いで心に映るのだった。

宝尾の集落は尾根の西側に形成されていて、北西方向へ進むと家の跡が何段階にも上へ上へと重なっていた。

ひとつの樹の幹の周囲を多くの蜂が周回しながら飛んでおり、蜂の巣の存在を知らせていた。

それを避けて迂回しつつ西へ進んだ。

白い竹の落葉に覆われたなだらかな斜面に、うねるスロープのような道があらわれた。



散り敷く雪のような竹の葉のなかを、夢のように続く道の感覚。

それは大田和で感じたあの感覚だった。

大田和の大宝寺らしき遺構へと続くあの道も、まるで明け方の夢のなかにあらわれる薄明のなかの幻想の道のように、白い心象風景のなかを蛇行しながら奥へ奥へとつづいていた。

この宝尾にもそれがあった。

村落跡の西にある小さな舌状の尾根であり、その高まりのうえは何か建物があったかのように削平され段状になっていた。標高約400メートル。


道はその高まりを越えて西向こうの谷へと、竹のなかをいったんくだっていく。


「おなりのだん」「山鳥屋敷」「辻堂」「三輪堂」「らん塔場」「鐘楼堂」「歓喜閣」「庵のだら」「ほりさこ」「釈舎利のさこ」「尾だら」……。

「宝尾山縁記」にあらわれる多数の地名が、心のなかに渦巻く。

「摩野尾山一乗寺は人王三十代欽明天王の御開基にして蜜家大法輪なり かたじけなくも本朝仏法のさいしょう百さい国より始めて蔵経沙門等わたり此山に納め 新たに梵台を建立して天下太平万人安全のために一大蔵経を読誦しけるに 天皇日夜に帰依をなし給ひ禄を賜ふこと一万余石 度々おなりありし故おなり門を建つることなり此處おなりのだんといふなり それより三丁上り山鳥屋敷といふ處あり 殺生を禁ずる山なれば日頃此處に鳥あつまり居ければ往来の人食物を与へる時は是をはんべるとなり それより三丁上り辻堂あり 接待場にして額に三輪堂とあり 是より権現山宮あり 右は一乗寺 左はらん塔場なり 此左に鐘楼堂あり その傍に四方遠見の庵あり 名づけて額に歓喜閣とあり 此處今にては庵のだらといふ 次に堀あり 古の蓮池なり 今はほりさこといふ……次に釈舎利のさこといへる處あり いにしへ百さい国より渡りたる肉付の御舎利を此處に納め金銀造りの舎利塔あり 右手のだいら本堂屋敷にして本尊釈迦如来なり此處尾だらといふ 此傍に大日堂あり 戒壇堂 法輪蔵 十王堂 合せて五間あり 次に高き峯あり 観音を安置し奉る堂は宝形造りなればぎぼしの空風はげしくして鳥とまらず 諸人これを見て名づけて鳥とまらずといふ」(「宝尾山縁記」)

竹の葉の道をくだったところは、地すべり地形を解析する谷の源流で、U字状に凹み、次にあらわれる台地状の地形への予感を高めているのだった。

それより上の斜面は激しく竹に覆われていた。

「宝尾山縁記」にいくつかあらわれる「さこ」のひとつではないかという思いになるのだった。


迫の先の台地には植林がなされていたが、そのはざまに竹の勢力が及び、植林と竹の混ざった状態となっていた。

将来的にはさらに竹が進出するのではないかという懸念を感じた。




この広く平らな尾根が、地形から受ける印象のみからすれば宝尾廃寺のメインとなる部分ではないかという印象があり、特段根拠のないことながら、「右手のだいら本堂屋敷にして本尊釈迦如来なり此處尾だらといふ」という「縁記」のフレーズを反芻してみるのだった。

この台地の延長上、斜面を降りていった先にも階段状の地形があり、何段階にも棚田のように整形されていた。


メイン台地から次の南西の台地へと降りていく道跡があった。

降りたところの台地はメイン台地より10~20メートル低くなっており、地形的にもふくらみや傾斜があって完全に平らではないが、メイン台地と同程度の広さがあり、ここにも当然なにかの建物が立地していただろうと感じられた。


これら台地の北西は急斜面となっており、標高490メートル「鳥とまらず」へと続いていた。

……何万年かの昔、この尾根は今とは異なるかたちをしていたが、何日も続く大雨の中か、あるいは大地震に際してか、あるいは前触れもなく突然にか、大規模な地滑りが起きた。そして「鳥とまらず」の直下にラグビーボール型の移動体を形成した。移動体の最上部には標高400メートルの平地ができた。

崩れた直後は地肌が剥き出しになっていたが、まもなく緑の植生に覆われ、やがて人がその平地を見出し、寺院を築き、村を作り上げた……。

そのような流転の物語を思った。

その西、さらに谷をまたいだところは「鳥とまらず」から南南東に伸びる細い尾根であり、その一部分で尾根の傾斜が緩くなっていたが、少なくとも大きな建物が立地するための面積はなかった。


感じたのは大田和との近さである。

大田和の大宝寺跡(推定)との距離は1~1.5キロであり、同じ山の南斜面と北斜面に寺が立地していて、互いに交通のあったことを推測させるのだった。

「時は人王七十四代鳥羽院上皇久しく御悩み給ひ快気の程も見えざれば種々明医御祈念堪間もなかりしが或時夢見給ふには北海の方より紫の雲たなびきし其中に不動尊出現したまいのたまはくそのかみ若狭国宝尾山に大伽藍あり此処に安置の不動なり今は寺院も絶破に及び人跡不登の荒山となるかくなるに随ひ雪霜雨露を受く仰ぐらくは丹後国河原金剛山に柴のいほりを建立し以て不動を勧請せば三日を過さず病平癒ならんといひ終って火焔の後光をかがやかし北の方指して帰り給ひぬ夢さめて後かくなればかくあるらんとて勅を下し此山を尋ぬるにはたして不動尊後光かたむき彩色くず[ママ]れしげしきちがやの中に雨露におぼりおわ[ママ]しぬれば勅使是を見て大におどろきはやく御門へ告げければ天王これを聞て御よろこび斜ならずいそぎ平孔[弘?]盛を遣はしかわら金剛山に七堂伽藍を建立す」

と「宝尾山縁記」にいう「不動尊後光かたむき彩色くずれしげしきちがやの中に雨露におぼりおわし」ましたのはどのあたりだろうか。

宝尾の村落跡に戻り、今度は東へ進んだ。

宝尾峠への道は倒れかかる竹に阻まれていたが、やがて雑木のなかへと以降し、崩落まじりの細い道となった。

岩の露出した谷の源流をまたぐと、こちらの尾根もまた段状に整形されている。炭焼の跡もある。




さらさらと崩れやすい斜面を宝尾峠に向かった。

最初に来たときの雨の夏、宝尾峠への道はほとんど失われており、崩れる砂のうえを這いながら進んだものだった。

今回は晴れ空のもとでありつつ斜面は適度に湿っており、踏み跡もあって、前回より安定した心持で峠へと達することができた。



峠に立つと樹間に青葉山がわだかまり、山麓に高野や今寺の集落が午後の淡い陽光につつまれてまどろんでいた。




峠から宝尾に戻り、権現跡に立ち寄った。

石積の上に、崩れ落ちた木の柱が積み重なっており、かつて存在した社屋の面影を、まだ時間的に間近なものとして訴えていた。



宝尾峠から宝尾、そして川上へと降りていく間、西陽が樹間からきらめきつづける。

そして宝尾の存在の大きさを思った。




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宝尾について(概観)
Overview of Takarao Village and the lost Ichijoji Temple