水源の里 市茅野のシャガ
(宝尾遠望)
小雨が降る夏の日、宝尾に向かった。
川上から西北に谷を詰め、谷川を渡って尾根に取りつく。
山岳仏教に魅せられた古代の人々もこの斜面をのぼったのだろうか。
植林の間をのぼっていく道はやがて、宝尾へと通じる尾根の背へと達した。
自然林のなかを進む彫りの深い立派な道であった。
(宝尾への道)
川上と宝尾との標高差はおよそ300メートル。
うねりながらその高さを埋めていく道は進むごとに立派さを増すのだった。
仏像が運ばれた信仰の道、そして穀物や牛が通った生活の道。
やがて尾根の雰囲気がやや変化し、尾根に人の頭程度の大きさの石が散乱していた。
大田和と同様、ここにも人の生活のあかしのように棕櫚が立っていた。
ここから道は尾根の西側斜面にスライドしていた。
(棕櫚の木)
そして生い繁る竹の中に、削平された階段状の地形が横たわっていた。
その階段状の地形のなかを移動していると、路傍の一段高いところに石仏が並んでいた。
倒れかかる竹の中、ユリ道は東へと向かっていた。
やがて谷頭をまたぐあたりから道は細くなった。
そしてもうひとつの尾根をまたぐ地点に出ると、そこも平らに整地されたような場所で、何か建物があったに違いないと感じさせるものがあった。
山の中でこういう土地に出会うと狐につままれたような不思議な感覚に襲われる。
この平地の東側はきつい谷頭で、ほぼ垂直に崩落していた。
さらに東に向かうと道はわかりにくくなった。ちいさな胡桃の実が落ちていた。
やがて宝尾峠の存在が感じられたが、急な斜面の地質は岩石というよりきわめて細かく風化した砂地のようで、歩くたびに足元がさらさらと崩れるのだった。
このように風化した蟻地獄のような峠道は初めてであり、富士山の須走の名が自然と脳裏に浮かぶのだった。
峠の手前に石仏らしき石像が半分埋もれていた。
峠では何も文字が刻まれていないように見える石柱が樹の根元にもたれ掛かっていた。
雨で視界はきかず、峠は白い靄の中にあった。
峠を後にして宝尾に戻った。
戻る途中に炭焼の跡かもしれない窪みがあった。
尾根の西側にまわりこむと石垣もあった。
土地は平らにならされており、皿や石の臼が転がっていた。
竹の中に背の高い石仏も並んでいた。
「仰ぐと石垣積群が望まれ屋敷跡であり、数百年・数千年宝尾村を築いてきた堂々たる築工物である」( 杉本壽「山頂集落宝尾の廃絶」『若越郷土研究』36-3、1991)という記述の通り、高い石垣は城跡を思わせた。
住宅や田畑の跡の階段状の地形には植林がなされていた。
はじめに石仏を見た地点に戻ると、さらに一段上に宝筺印塔があった。
激しくなった雨の中、宝尾から川上へと尾根道を降りた。尾根から川上の谷に降りて渡渉するとき、谷川は往路の時よりもかなり増水していた。