水源の里 市茅野のシャガ
「丹波の上林へゆくには、佐分利の河上、宝尾村をへて上林谷へゆく」
と、津田一助『稚狭考』は述べる(『小浜市史資料編第一巻』[1971]175頁)。
逆に綾部の側から見る。長い上林谷を詰めて市茅野から国境を越え、急な谷を下ると、最初に出会うのが若狭川上の集落である。宝尾はその川上地区にあった高い山上の集落である。
かつて山岳仏教が栄え、昭和まで数件の民家があったという宝尾も今は廃村となった。
川上から北を眺めると標高500メートル弱の山々が横たわっていて、その頂き筋よりやや下、標高350~400メートルの付近にやや植生の異なっている部分が見える。これが宝尾である。植生の異なって見えるのは主に竹と植林である。
それは生活を支えるために利用していた竹が廃村後は自由に繁茂して、村の名残を伝えている姿なのかもしれない。
川上の入口には「宝尾山遺跡」に関する立看板が立っている。
「初めてわが国に仏教が伝わった6世紀中頃、宝尾山に摩野尾山一乗寺が建てられたといわれています。一時、七堂伽藍をもつほどに栄えましたが、やがて仏法をめぐる争いごとで滅び、宝物のほとんどが失われてしまいました……」
と記され、「宝尾山縁記」にもとづくという略図も描かれている。
『大飯町誌』1989(545頁以降)に紹介されている「宝尾山縁記」の内容から、要所を引用ないし要約してみる。
……「摩野尾山一乗寺は人皇第三〇代(二九代)欽明天皇の開基」である。
……「『山鳥屋敷』があってそこは殺生禁断の山で常に小鳥が集まり往来の人から食物をもらって食べていた」。
……「『三輪堂』と額を掲げた辻堂があって、参拝客の接待場として使用されていた」。
……「権現山宮」「らん塔場」「鐘楼堂」「歓喜閣」があり、「庵のだら」「堀さこ」という地名がある。(この項は要旨)
……「『釈舎利のさこ』と呼ぶ所があって、昔百済から来た肉付の舎利(仏陀の遺骨)を納骨した金銀造りの舎利塔があり、右手の平は本堂屋敷で、本尊は釈迦如来である。この平地一帯を『尾だら』と呼び、大日堂・戒壇堂・法輪蔵・十王堂の五棟が立ち並んでいた。その上に高く峰がそびえ、その峰に観音を安置した宝形造りの高塔が建てられて、朝夕太陽を受けて擬宝珠が輝き、激しく風を受けて鳴り響くことから鳥たちは大空に大きく輪を描いて止まろうとしない様を、人々は『鳥とまらず』と名付けた」。
……摩野尾山の不動明王は一乗寺が衰えたあと野ざらしになっていた。鳥羽上皇が病に臥し、若狭国宝尾山の不動を丹後の河原金剛山に移せば快癒するだろうとの夢のお告げがあった。上皇は平弘盛を使わして不動明王を河原の金剛山にまつった。(この項は要旨)
これらの記述のあと『大飯町誌』は以下のように要約している。
「縁起のことなのでいくらかの誇張があるとは考えられるが、宝尾伝説は、百済から初めて仏教が伝来したとき、宝尾山にも我が国で最初の一乗仏教が繁栄し天朝の帰依を集めたこと、そしてそれが、摩野尾山仏徒自体の大きなおごりに発展して典型的な堕落の一路をたどっていき、それが唐から帰朝した空海や最澄の布教する真言・天台の仏教を相容れないまでにエスカレートして、当代の朝廷から見放され処分を受けて没落していく様子を物語り的に披露してくれていると理解される」(549頁)。
宝尾の不動明王を移した丹後の河原の金剛山とは、三島由紀夫『金閣寺』の舞台でもある舞鶴・鹿原の金剛院である。『大飯町誌』は金剛院の不動明王の写真を載せている(546頁)。
「宝尾山縁記」から、上引の主な部分の該当箇所を原文に近いかたちで示しておく(これは原文そのものではないが原文を罫線紙に写したもので、大飯図書館にコピーがある)。
「摩野尾山一乗寺は人王三十代欽明天王の御開基にして蜜家大法輪なり かたじけなくも本朝仏法のさいしょう百さい国より始めて蔵経沙門等わたり此山に納め 新たに梵台を建立して天下太平万人安全のために一大蔵経を読誦しけるに 天皇日夜に帰依をなし給ひ禄を賜ふこと一万余石 度々おなりありし故おなり門を建つることなり此處おなりのだんといふなり それより三丁上り山鳥屋敷といふ處あり 殺生を禁ずる山なれば日頃此處に鳥あつまり居ければ往来の人食物を与へる時は是をはんべるとなり それより三丁上り辻堂あり 接待場にして額に三輪堂とあり 是より権現山宮あり 右は一乗寺 左はらん塔場なり 此左に鐘楼堂あり その傍に四方遠見の庵あり 名づけて額に歓喜閣とあり 此處今にては庵のだらといふ 次に堀あり 古の蓮池なり 今はほりさこといふ……次に釈舎利のさこといへる處あり いにしへ百さい国より渡りたる肉付の御舎利を此處に納め金銀造りの舎利塔あり 右手のだいら本堂屋敷にして本尊釈迦如来なり此處尾だらといふ 此傍に大日堂あり 戒壇堂 法輪蔵 十王堂 合せて五間あり 次に高き峯あり 観音を安置し奉る堂は宝形造りなればぎぼしの空風はげしくして鳥とまらず 諸人これを見て名づけて鳥とまらずといふ
山退転の後本尊観世音菩薩は不思議なるかな五色の雲に乗じ何国ともなく御去り給ふ其跡に御わき立不動毘沙門おわ[ママ]しまし年月を重ぬるに随ひ終には御堂もくづれければ幸田白のだんに辻堂あり此に移しおくこと年久し時に中山観音堂新に建立し御わ立[ママ]なきが故に南のことなりとて田白の両尊をもりうつす者なり
去ほどに摩野尾山三十六坊の祈念堂は本尊不動尊にして世に二尊となき霊仏なるが寺絶破の後は御堂の跡に草木しげし其の中に不動尊只一躰雨露にしたゝりてぞおわ[ママ]しける
これにつき永き因縁あり時は人王七十四代鳥羽院上皇久しく御悩み給ひ快気の程も見えざれば種々明医御祈念堪間もなかりしが或時夢見給ふには北海の方より紫の雲たなびきし其中に不動尊出現したまいのたまはくそのかみ若狭国宝尾山に大伽藍あり此処に安置の不動なり今は寺院も絶破に及び人跡不登の荒山となるかくなるに随ひ雪霜雨露を受く仰ぐらくは丹後国河原金剛山に柴のいほりを建立し以て不動を勧請せば三日を過さず病平癒ならんといひ終って火焔の後光をかがやかし北の方指して帰り給ひぬ夢さめて後かくなればかくあるらんとて勅を下し此山を尋ぬるにはたして不動尊後光かたむき彩色くず[ママ]れしげしきちがやの中に雨露におぼりおわ[ママ]しぬれば勅使是を見て大におどろきはやく御門へ告げければ天王これを聞て御よろこび斜ならずいそぎ平孔[弘?]盛を遣はしかわら金剛山に七堂伽藍を建立す云々
去るほどに摩野尾山三十六坊の中にも本覚院西之坊東の坊をつかさとして諸堂の数多ければ霊仏霊画宝物等も風にうそむき雨にしたゝれ御山の土となれる其数を知らず余は諸方の寺院へ勧請し辻堂に納め置く其の数舌頭にのべがたし
一、当所釈迦如来は聖徳太子御作なり蔵王大権現御本地にして霊剱[ママ]分明の尊像なり此の尊像を朝夕に帰依し礼拝くきようなす輩は現世には七つの災難を除け七色の福を与へ後生には家楽におうしやうし安楽の世界に道引との御誓ひあやまつてうたがう[ママ]べからず」……
「此山絶破に及ぶ其起りを尋ぬるに大同弐年に高野山を建立ありければ諸国の真言皆高野に従へども摩野尾山は仏法のさいしょにして御御門の御祈願所なれば高野山よりも繁昌し當今はじめとし諸こうの御帰依あさからねば一乗寺をはなにかけ諸国の法師をかるゝゝしうし今日のえいぐわにほこり人をかろしむるが故に万人のにくしみを受けついに高野ひえいさんの衆僧いつとうし覚えなく悪逆を申上ければ當今さまの御帰依もうすくなりざんげん日々に達しければ終に禄を取上られ殊に御つい罰を蒙り四方へ悉く退散しければ諸堂も自らはいゑに及び今にては鳥もかはぬ荒山となるは皆是れ仏神三宝に帰依うすきにより正しく御罰を蒙りしかと後にぞ思い知られける」。
上記の「庵のだら」「尾だら」の地名について考えてみると、「だら」は「平」(だいら)であろう。実際これらは山上の平地である。上記の立看板には「あんだら」「むかんだら」の文字もある(「あんだら」は「庵のだら」と同じかもしれない)。
ここで「だら」が頻出することでもわかるように、宝尾には山上の平地が多いのであり、それはここが地滑り地形であることと関係していると考えられる(地すべり地形分布図データベース http://lsweb1.ess.bosai.go.jp/jisuberi/ )。
山で地滑りが起きると崩落後に平地ができる場合があり、また湧水が豊富なので山岳寺院や山上集落が立地することがある。
川上から宝尾にアクセスする道のある尾根は、西側のほうが痩せている。すなわちこの尾根の西側の谷は、東側の谷よりも鋭く切れ込んでおり、円弧状にせり出して尾根に迫っている。これはもともとそうだったのではないと考えられる。地滑りによって西側の山塊が滑り落ち、この尾根へと円弧状に押し寄せた結果、谷の位置が移動したのだろう。この様子は川上からも見てとることができる。この地滑りがいつ発生したものか、大雨や大地震などの際に連動して起きたのかそれ以外かはわからないのだが。
また宝尾には「おなりの段」という地名もある。『大飯町誌』による「宝尾山縁記」の要旨においては、以下のように説明されている。
「我が国に仏教が初めて渡来して百済から仏像経文僧侶等が渡り、この山にも納められるようになって新しく伽藍を建立し、天下泰平・万民安全のための大蔵経が読経されると、天皇は大層仏門に帰依遊ばされて、寺禄として一万石を一乗寺に給わり、度々当山へ行幸されることになった。そのために『おなり門』が造営され、その地を『おなりのだん』と呼ぶようになった」(545頁)。
ここでは天皇の行幸のゆえに「おなり」という地名がついたという物語となっているようである。ただ通常「おなり」「おおなる」は地形に由来する地名用語で、山上の平地を示すはずである。弥仙山にも於成(おなり)があるが、天皇の行幸ゆえにその地名がついたとは考えがたい。宝尾のおなりも地形地名ではないか。そののち、Volksetymologie(通俗語源)により行幸と関連づけられたものと考えたい。
杉本壽は宝尾において水が豊富であったことを指摘している。地滑りと関係あることだろう。宝尾はいわば山の古傷に立地した集落である。
……「宝尾村の人々は一大段丘集落に位置し、清水が豊富であり飲料水にことかかず餘水で田圃さえいとなんでいた」(杉本壽「宝尾村落の生存構造」『若越郷土研究』36-4、1991)
……「清水口の湿地は、田圃跡で深い泥湿地になっていて足がとられ、山上集落の水利のよさが窺われる」(杉本壽「山頂集落宝尾の廃絶」『若越郷土研究』36-3、1991)
……「宝尾は広い山地なので対岸の山畑に一坪大の暖地があり、豪雪の年であってもいちはやく融雪する場所があり、農作業のくぎりをつけてくれる場所がある」(同上)
宝尾村の起源について『大飯町誌』は
「これは昔、藤原鎌足の末裔がこの地に来て住まいし、連綿と今日まで及んだもの」
としている。また杉本は
「山地民族村落の定着村として成立したか、あるいは摩野山[ママ]一乗寺宝尾権現の信仰霊場として賽銭収入によって維持されてきたか」(「宝尾村落の生存構造」)
と書いている。ここであえて飛翔してみると、さらに時代を遡ることはないのだろうか。農耕の時代は田畑を作る都合上、平地が有利に違いない。一方、狩猟採集の時代に、水の湧き出る尾根の一角が有利であったということはないのだろうか。人が住みやすい場所というのは先史時代から湧水などの特徴があってすでに見いだされ、それが後代にも継承されてきたというのは一般的にはありえないことでもないと思える。こればかりは誰にもわからないことであるが。
宝尾という地名の「宝」は仏教に由来するものか、あるいは「高原」が「宝」になったものだろうか。宝尾に「ダラ」という地名が多いことは上に記した。「宝尾」は「ダラ尾」なのかもしれないという思いもよぎるのである。
引き続き杉本に従って、宝尾の生活の糧について瞥見しておく。
「各家数段歩の畑と谷間の広闊地を拓いて数段の水田をもっており、川上村への下山以前から川上地区に水田を所有していた。自然柿や天然栗の産地で栃実も多かったとおもうが、味がよいので麓の村の童たちがつれだって上ってくるほどであった」(杉本「宝尾村落の生存構造」)
「粟・黍・稗・大豆・小豆が主作であったが、近世では川上在に田圃を入手し牛背で肥料を運び収穫物を山にあげて三尺道を往復する苦労を重ねていた。」「養蚕・製炭や山柿や栗実を天秤棒にして、高浜町へ二里の山道を売りにでかけて現金収入につとめる姿がみられた」(杉本「山頂集落宝尾の廃絶」)
廃村には色々な原因が理由があろうが、戦争もひとつの要因であったらしい。廃村の原因としては経済的な変化に注目しがちであるが、戦争はこういうところにも影を落とすものだと思わせられる。
「戦争中に男たちが出征してゆくので部落経済が維持できなくなり、家族たちは次第に下山しやがて廃村になったのである」(杉本「山頂集落宝尾の廃絶」)