水源の里 市茅野のシャガ
(1)
『丹波志何鹿郡部』に、「荊城山薬師寺古跡 武吉村」の項があり、
「深山ニ古跡 字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍 五丈斗滝アリ 天正年間明智光秀福智山城エ引 諸仏残リ村エ引取 三間四方薬師堂安置ス 居仏三尺斗観音勢至像五尺斗 庵ノ本尊大日如来ヲ合テ三尊 上林七里ノ谷勝テ大仏也 其外古仏多シ 吉祥院麻呂子親王七仏薬師ト云云」(綾部史談会版63頁)
としている。
滝と寺跡のセットが武吉町深山にあり、武吉の玉泉寺に現在ある大日如来はかつてそこにあったらしい。武吉には大御堂谷という地籍があり、「字ニ大御堂小御堂」と関連があるのかもしれない。
「上林七里ノ谷勝テ大仏也」のうち、大日如来は「村エ引取」を経て最終的に玉泉寺に安置された。一方、観音・勢至などについては、
「時うつり明治初年となり廃仏毀釈の厄にあい堂は壊され諸仏まさに処理されようとする寸前、通り合わせた福知山の商人に薬師如来観音勢至菩薩の三体は買とられ、後に笹尾の円応寺境内に祀られて今日に至った」(井上益一「玉泉寺と大日如来」『綾部の文化財』第23号、1986年3月1日)
とのことである。『天田郡誌資料上巻』にも、「丸尾山圓應寺」について
「境内に薬師堂あり、往事何鹿郡上林村竹田[ママ]に薬師堂ありしが、其薬師如来は心なき工人の手に落ちて今や金箔をも剥ぎ取らんとするを見て圭峯和尚大いに慨嘆し、私財を以て之を贖ひ、別に一宇を建てゝ之を安置す、時に明治十二年七月なり」「明治廿一年二月廿八日朝、失火堂宇器財盡く焼失、されども本尊及薬師堂其他祖佛の尊像は災厄を免る」(180頁)
とある。
玉泉寺は臨済宗であるが、玉泉寺に掲げられている説明板によれば薬師寺は真言宗であった。また圓應寺は曹洞宗である。
また『口上林村誌』では田重野の奥、将軍橋から3kmの地点に三丈の滝(「不動瀧」)があると記している(126頁)。
五丈と三丈の違いはあるが、仮に「五丈斗滝」と「不動瀧」とが同じ滝のことを意味しているとすれば、将軍橋から3kmのあたりにあるらしい。
武吉の奥に荊城山薬師寺を探した。
いくつかの谷を訪ね、その奥には大抵、小規模な小滝やナメ滝があったが、滝といえるほどの滝、寺跡といえるほどの遺構には出会わなかった。滝と平坦地のセットが必要であった。
地図の上で候補として残ったのが鉢伏山頂から北西に1km、標高400メートルの地点であった。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351826&l=1352213
地図によると、ひと癖ある地形であり、細い谷がここで屈曲し、右岸が袋状に開けている。等高線400メートルと390メートルの間はきわめて狭く、急斜面になっていることが予想できた。ただし上流の集水域が狭く、滝があるとしても水量は少ないに違いなかった。
このくびれた地形は美山の雄滝の地形も連想させ、滝の予感を漂わせていた。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352118&l=1353903
空中写真を確認すると、地図が示すとおり陥没したような地形であり、南から流れてきた谷がここで滝となっている可能性はあると思えた。上記の通り滝のほかに寺があったとすれば、右岸の袋状のところ、標高350メートルと400メートルの間にあるのではないかという期待があった。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ckk-75-8/c3/ckk-75-8_c3_37.jpg
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(2)
現地確認のとき気にかかるのはそれなりの道跡があるかである。寺があったということは少なくともそれ相応の交通があったということであり、道が全くないようだと、寺跡をはずしている可能性を感じることとなる。
その点、この谷を下流から遡っていくと1メートル幅程度の道はあった。次第に谷の勾配が急になり、渓流の趣が増してくる。標高300メートルほどの地点になぜか竹と三椏が生えており、そこを過ぎてしばらくすると道は怪しくなった。
道のない谷底をそのまま遡行していくと、ふと前方がひらけ、樹間に黒い岩壁が見えた。
あらわれたこの黒い岩壁は、谷間に挟まれた狭い視界のなかで、焦燥とともに揺曳するのだった。
谷底を進み近づいていくと、それが滝であった。垂直の巨岩から水が滴っている。
岩が周囲より硬いか何かで、この地点でダムのように滝を形成しているのだろう。岩をえぐっている滝の高さは大雑把に10メートル前後であると思え、「三丈」ないし「五丈」と矛盾はしなかった。上記のとおり集水域が狭いため、水量は実際少なかった。
巨岩に懸命に根をおろした草木たちが風の中で不安げにふるえていた。
この滝のある地点はやや独特で、南から二本の谷が北流しているが、二本の谷が合流してから滝として落ちているのではない。
水量の相対的に多いほうの西の谷は垂直の滝にはならずに急流として落差をこなしている。
一方で水量の少ない東の谷は垂直の滝となって落差をこなしている。
そのため、滝があるのに、その横にもうひとつの谷が急流として流れているという状態になっている。東の滝の水と西の急流の水は、滝の下で合流している。
もし、滝を形成する巨岩の横幅がさらに大きければ、この地点には二本の滝がかかっていたかもしれない。
滝の右下、合流点より上に、人工の平地なのか天然なのか小さな平地があり、そこに石を積み重ねた小さな人工の厨子があった。厨子の中には小さな岩が置かれていた。
厨子の前には、縦長の石を立ててそのうえに石灯籠ふうにもうひとつの石をのせた小さな石塔があり、これも人工的なものかもしれなかった。
洞峠の道にある石の厨子を思い出した。
金久昌業『北山の峠(中)』(ナカニシヤ1979年)は洞峠の古屋側の道について記すなかで、
「少し下ると路傍の落葉の中に可愛らしい石室を見る。五〇センチ四方くらいの小さなものなので石の厨子と云った方がよいかもしれないが、苔むして古く気づかずに通り過ぎてしまうほど自然に同化している。中には石柱が置かれているが、多分仏様が彫ってあったのだろう。摩滅して形はなくとも仏様だとわかるのである。これはもう仏様でも石柱でもなく、この峠を越えた多くの旅人の祈りの凝集というものかもしれない。」(136頁)
としている。
この滝の下の厨子についても同じような感じが漂っていた。明確な石仏や石塔でなくとも、この滝に神さびたものを見いだした昔人が石の組み合わせによってささやかな厨子を作ったであろうことに、いわくいいがたい感慨があった。
滝の東側(左側)の急斜面には炭焼の跡があり、周囲の土壌は炭化物が混じって黒くなっていた。
滝の上にあがると、落ち口の上にも数メートル程度の半月状の平地が造成されており、その上端に炭焼の跡があった。印象としては、単に炭焼用に造成されたものというよりは寺跡に関連した何かの遺構があり、その平坦さを活用して後代に炭焼をしたものではないかと思えた。
滝の上からは佃や武吉、十倉の展望が開け、大日如来の移動先である玉泉寺の付近も見えた。上林川に刻まれた平野に村落が息づき、冬雲の動きにあわせて空からの光が谷あいをまばゆく照らしたり翳ったりした。
景観設計の点からすると、井根の日圓寺や上杉の施福寺の原型がかつて存在したであろう上林川対岸の蓮ヶ峯が見えてほしかったが実際、蓮華の花弁状にたたなづく蓮ヶ峯が見えた。また遙か北方には杉山や赤岩山、由良ヶ岳が雲に烟っていた。
ここから武吉が見えるということは、武吉からもここが見えるということに違いなかった。
滝より上流の急斜面も調べたが、炭焼の跡がひどく多かった。通常の炭焼の跡と少し感じが異なるのは、炉の前に半月状の平坦地があることであった。急斜面にあるので作業用に平坦地の造成を必要としたのであろう。
さて滝の下から平行に右岸の斜面に移動していくとまず小規模な平坦地があらわれる。
そしてさらに右岸を北上すると、より大きな平坦地がある。南北に長いこの一連の平坦地は空中写真でも滝の北側に視認することができる。大きな平坦地と小さな平坦地のセットを総称して大御堂小御堂なのかとも思うがわからない。
この大きなほうの平坦地は大雑把にわけると三段階の面があり、そのうちのひとつには3メートル四方程度の正方形に盛り上がった基壇状の痕跡があった。それは愛宕山の雲心寺跡で見た基壇状の遺構(屋木英雄・丸川義広・宮原健吾・高橋潔「京都・愛宕山中の遺跡-雲心寺跡の発見」、『仏教藝術』259号、2001年11月)と類似したものを感じさせた。
急流があり、右岸に平坦地があって、寺跡があるという構図は、美山の聞法寺跡にも類似したものがあった。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351804&l=1353909
どの地点が「大御堂」でどの地点が「小御堂」なのかまではわからないが、ここではこの一帯が「荊城山薬師寺古跡」ではないかと考えた。
玉泉寺の説明板によれば大日如来は鎌倉時代の作とのことだから、それは山寺の存在時期を考える材料にもなる。
深山(みやま)の地名のとおり、深い山中に滝や急流があり、滝の上から武吉や蓮ヶ峯を展望できるこの地点は、真言密教に適した霊地であり、石の厨子や寺跡と思われる平坦地の存在と考え合わせると、何の遺構でもないということは考えがたかった。
『口上林村誌』は将軍橋から3kmのところに三丈の不動滝がある(126頁)と記す一方で、「薬師寺遺趾(武吉不動谷)」「不動谷には高さ三丈に及ぶ瀧あり」とも書いているから(184頁)、普通に考えれば不動谷に三丈の不動滝があり薬師寺遺趾も同じところにあるということになるだろう。
「不動瀧」のところで「往古は不動堂ありて毎年六月六日お祭りを行ひ草角力に和知方面より参加するものあつて盛んであつたといふ」(126頁)とも書いているが、寺の跡に不動堂が立地していた時期もあったのかもしれない。もしかすると寺跡の基壇を土俵に見立てて角力をしたのではないかとか、基壇に見えたのは実は土俵だったのかなどと、要らぬ迷いも浮かんだりする。
大きい方の平坦地から道が谷の右岸を高巻いて下っており、下を見ると往路で遡行した谷底が見えた。この道は滑落しそうな岩壁を細々と通過する地点もあった。
やがて道はわかりにくくなったが、竹と三椏の生えていた地点あたりで谷底に降りた。往路は途上で道を見失ったが、道は或る地点で谷底を離れて切り返し、寺跡に至っていたのだろう。この谷の右岸は急斜面であるから道が維持されにくい。
渓流沿いのこの道は、大日如来が山を上り、そして下っていかれた道に違いないと思えた。