大宝寺跡(推定)への道
水源の里 市茅野のシャガ
大宝寺跡(推定)への道
福井県高浜の廃村・大田和を何度か訪ねた。
ただ大田和の奥にあるという大宝寺については明確な確認ができておらず、追加調査の必要を感じていた。
大田和からは、その南西の尾根の一角まで道がついており、道の終点に小規模な台地があることはすでに記した。
当初、これが大宝寺跡なのかと考えたことがあった。
(A)
しかし等高線を見ると、大田和の南南東400メートルの地点に大田和と同規模の平坦な台地があるようであり、こちらが大宝寺跡かもしれなかった。
(B)
夏の大田和に向かう途は、午前の曇りが昼から次第に晴れていった。
大田和では複数の谷が合流しているので複雑であるが、(B)に行く尾根は、(A)に行く尾根のひとつ東である。
Bへの尾根の末端部は竹が比較的広い間隔で立ち並んでおり、その竹のなかに深い彫りの道があった。
この道を見ただけで、その先に重要なものがあることは実感できた。
竹の乾いた葉が白く散り敷き、夏なのに雪原のような印象を与える枯れた斜面を、彫りの深い道は蛇のようにうねりながら這い上がっていく。
あたかも雪原に刻まれた橇の轍のように。
この竹の中の道の脇にも、四角く削平された何か建物の跡のような地形があった。
竹のなかの道はやがて細い尾根をわたるブリッジとなり、竹林から雑木林へと移行した。
まず左に人工的な段状の地形があらわれる。
そして最後のスロープを抜けると、声にならない不思議な感覚とともに、豁然とした緑色の空間へと吸い込まれた。
上記の(B)である。
何段にも削平された広い平地。
訪れる人も少ないこの山中、藪や竹にうずもれることもなく、開放的な疎林のなかに今も明確に人工的な段状の地形が息づいているのだった。
平地に混じって存在する広い窪みは池のようであり、平地の脇をかすめる谷川は日本庭園をいろどる曲水のようであった。
そして斜面の西側は棚田ないし段々畑のように、数メートル幅の階段として造成されていた。
近現代の砂防であればそれまでだが、この「段々畑」の一部分の法面は石積みで補強されていた。
あちこちを眺めて歩いていると、木々のざわつく音がし、鹿が慌てて逃げていった。
鹿にカメラは間に合わない。
霊峰青葉山を北に望むこの斜面に、これだけの遺構がねむっているのだった。
慎重であったほうがよいとはいえ、これが大宝寺跡ではないかと思われた。
『大飯郡誌』に「大寶寺跡 東三松字大田和の山中に在り、断礎叢中に點在せり」(487頁)とある。
実際、わずかの数ではあるが礎石ではないかと感じられる石はあった。
木漏れ日の揺れる静かな山中に蝉の声だけが雨のように注ぎ、それは多数の僧が朗々と経典を読誦する幻想でもあった。
この付近では所々に白く透き通ったギンリョウソウがたたずんでいた。
大田和の標高250メートルに対し、ここの標高は350メートルで、100メートル高い。
もし木々が少なければ、ここからぎりぎり青葉山が見えただろうか。
そして海は見えたのだろうか。
この平地から南を見ると樹間にはすでに、大飯町との境界尾根の向こうの空が垣間見えていた。
斜面をさらに南へあがり、以前大田和から宝尾へと向かった時にも通過した尾根に出た。
この尾根の南側は急斜面であるがこの大宝寺跡(推定)のある北側は緩斜面である。
鋭い青葉山の麓に、今寺や松尾寺がいきづき、その西に空山が見えるのだった。
この遺構から東へ尾根をたどれば1kmあまりで宝尾である。
標高490メートルの「鳥とまらず」も鋭くそびえていた。
「宝尾山縁記」に
「高き峯あり 観音を安置し奉る堂は宝形造りなればぎぼしの空風はげしくして鳥とまらず 諸人これを見て名づけて鳥とまらずといふ」
という「鳥とまらず」は、こうして大宝寺から少し背後の尾根にあがるだけで見える。
大宝寺を訪れた者が東の尾根を望めば、金閣寺のような宝形造りの観音堂が天を突いている、そんな光景を連想させる空間だった。
尾根を縫うようにして、大宝寺と宝尾の寺の両方を参拝することも可能なはずであり、牧山、宝尾、大宝寺、そして高浜の寺々が一連のグループのものとして感じられた。
大宝寺跡から流れくだったらしい仏が、横津海の村に収められているという。
高浜町郷土資料館『青葉山麓のみほとけたち-里の祈りと仏-』(1998)に、
「横津海地区には何躯かの朽損仏がおまつりされていますが、言い伝えによると、いつの頃かはわからないが、集落の中を流れる前川が豪雨で増水したときに、上流から流されてきたということです」(28頁)
とある。
同書は大田和の大宝寺以外に牧山の可能性も捨てきれないとしているが(28頁)、牧山と横津海とは流域が違うから、少なくとも自然の営力のみでは、牧山のものが横津海に流れつくことは考えがたい。やはり大田和の大宝寺のものだろう。
同書によると、横津海の朽損仏は「如来立像」「如来坐像」「梵天立像」「四天王(のうち二体)」(いずれも部分的)で、平安後期のものと推定され、「梵天像や四天王像を含むことから、かなりの規模の寺院の存在がうかがえる」とのことである(30頁)。
また同書は「梵天立像が遺されることは同時に帝釈天像があったことを示している」とし、如来坐像については「この仏像群の主尊と考えられる」としている(ともに30頁)。
一方、日本歴史地名大系18『福井県の地名』(平凡社1981)は「中山寺」の項で、
「本堂内の脇侍毘沙門天、不動明王は、大田和にあったという天台宗大宝寺のもので、大宝寺廃寺後中山寺へ移されたと伝える」
という。
大宝寺の宗派については今のところこの『福井県の地名』に、「天台宗大宝寺」という情報があるばかりである。
以上のことから、大宝寺には少なくとも以下の仏があった可能性があろう。
・如来立像
・如来坐像
・梵天立像
・帝釈天(梵天からの推定)
・四天王(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)
・毘沙門天(中山寺)
・不動明王(中山寺)
「青葉山を取り囲むこの一帯は深い山中でありながら、山より更に存在感の大きな海に全身が融け込んでいき、西方浄土という言葉が口をついて出るようなひとつの世界である」と以前記した。
青葉山とその背後の日本海の存在に向かい合う大宝寺跡の緑の空中庭園は、上のような夢うつつの浮遊感をよみがえらせ、伽藍が朽ちた今も山自体が木洩れ日のなかで人知れず瞑目微笑しているような、不思議と優しげな空間であった。
竹の中の道をくだり、大田和を再訪して山を下りた。
大田和は横津海からの山道の終着点のようでいて、実は大宝寺への通過点であった。
大宝寺の門前町のようなものとして、寺とセットで発達した村なのではないかという思いがよぎるのだった。
仏が流れくだった大田和の谷は、いくつも小滝をかけながら横津海へと続いている。
なかにはそのまま日本海に出られた仏もあったろうか。
いま朽損仏がおられる横津海の村、その北には青葉山が大きく横たわっていた。
【年表】
[平安後期]
……横津海の朽損仏の推定年代
[正長(1428~1429)]
……大宝寺を中山寺本堂として移転?
[不明]
……朽損仏が横津海に流れつく
[昭和28年(1953)~]
……13号台風水害を契機として大田和廃村
【資料】
以下に大宝寺にまつわる情報をいくつか掲げておく。
高浜町郷土資料館『青葉山麓のみほとけたち-里の祈りと仏-』(1998)
「横津海地区には何躯かの朽損仏がおまつりされていますが、言い伝えによると、いつの頃かはわからないが、集落の中を流れる前川が豪雨で増水したときに、上流から流されてきたということです。前川の上流には、かつて昭和28年9月の第13号台風の後、廃村となった大田和という集落がありました。『大飯郡誌』によると、「大宝寺跡 東三松字大田和の山中に在り、断礎叢中に點在せり」と書かれています[引用注:大飯郡誌487頁]。一説に、重要文化財である中山寺本堂はこの大宝寺の遺物で、室町時代正長年中(1428)にご本尊と共に移転されたとも伝えられています。その真偽のほどはともかく、毀れた礎石が点在しているという記述を信用するなら、大田和には山岳寺院が存在した可能性があり、横津海集落の仏像群もそこから流されてきたのかもしれません。また、疑えばさらに上流の牧山から降ろされた、或いは流された可能性も捨てきれないでしょう。いずれにしろ、現在おまつりされている仏像は、朽損仏といえども非常にレベルの高い尊像であることに間違いありません」(28頁)。「梵天像や四天王像を含むことから、かなりの規模の寺院の存在がうかがえる」(30頁)。
桜井帯刀「廃村の村『上津、大田和』について」『若越郷土研究』11-3、1966
「昭和三十七年三月三十日付で、国の重要文化財に指定された建造物「中山寺本堂」は大田和地区の大宝寺の遺物(室町時代、正長年中〔西暦一四二八年〕移転)とも伝えられているが、中山寺住職の杉本勇乗氏によると「約二十年前頃までは大田和の人々が、正月の礼に、萱束を背負って来るのが恒例であつて、寺側としては、牛蒡程度のつき出しをして、一パイつけるのが仕来りであった」との事である」。
日本歴史地名大系18『福井県の地名』(平凡社1981)「中山寺」の項
「本堂内の脇侍毘沙門天、不動明王は、大田和にあったという天台宗大宝寺のもので、大宝寺廃寺後中山寺へ移されたと伝える。その縁で毎年屋根材の萱を大田和から中山寺へ届けるならわしが続いたという」(692頁)