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京都里山讃歌

KYOTO SATOYAMA SYMPHONY

水源の里 市茅野のシャガ

報恩寺の葛尾山福性寺は尾通りに十三堂あり(福知山)

Ruin of the Lost Houon-ji Temple, Fukuchiyama

 

 

 

 

 

 

 

報恩寺の葛尾山福性寺は尾通りに十三堂あり

(1)報恩寺の名の由来

『丹波志何鹿郡之部』寺院ノ部に、「葛尾山福姓[ママ]寺 報恩寺村」という項目がある。

「往古ハ今ノ報恩寺谷惣高寺領ト云伝フト云 其比ハ当寺葛尾山報恩寺ト云 二百年斗中絶シテ本堂斗有之 寺号ヲ村名ニ唱フ」(綾部史談会版27頁)

とある。「報恩寺の筍」でも有名な「報恩寺」の名の由来は、「葛尾山報恩寺」なのかもしれない。

この項の全文を示す。

「一 葛尾山福姓寺 報恩寺村 東ノ葛尾谷ノ奥ニ 空也上人開基 真言宗丹後国加佐郡南山村 室尾谷山観音寺末 当寺寿命院有門 別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ 門前百姓一軒往古ヨリ有 境内山林田畑六反三畝五歩 御除地也 往古ハ此山ノ尾通リニ本堂跡石場多シ 今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡 谷水ヲ字ニアカノ水ト云所有 マタ東ニヂャウチウ坊(云)所アリ 今ノ本堂上ニ字正センナト云所有 往古ハ今ノ報恩寺谷惣高寺領ト云伝フト云 其比ハ当寺葛尾山報恩寺ト云 二百年斗中絶シテ本堂斗有之 寺号ヲ村名ニ唱フ 往古ノ釣鐘ハ今御室ニ有之 銘ニ何鹿郡ハサキノ庄葛尾山報恩寺ト有 当寺ヨリ人家エ七丁斗」(『丹波志何鹿郡之部』綾部史談会版27頁)


(2)現在の葛尾山福性寺

現在の葛尾山福性寺は報恩寺の多谷にある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352010&l=1351023

掲示があり、以下のように記されている。

「當山ハ人皇六十二代村上天皇ノ御宇天歴[ママ]七年[引用注:953年]京都六波羅蜜寺空也上人ノ開基ニシテ本村葛尾ニ七堂伽藍ヲ建立シ本尊藥師如来ヲ安置ス已来信徒相集マリ檀徒モ亦小畑鍛治屋報恩寺私市及川北ノ一部ニ亙リ寺門隆盛ヲ極メタリシハ史蹟ニ明カナリ時ニ保元平治ノ乱[引用注:12世紀]兵火ニ全焼シ後五ヶ年ヲ経十八畳一棟ヲ設ケ本尊而已ヲ安置ス此ノ間四百八ヶ年ノ久シキニ亙ル而シテ後文禄二年[引用注:1593年]越後ノ人良円亜闍梨図ラズ此地ニ来リ稀有ノ霊山ナルヲ惜ミ再建セリ今中興開山ト称ス 以来三百三十六年ヲ経タリ 今ヲ去ル百年来寺勢漸次衰ヘ明治維新以来愈々衰頽ヲ窮ム 顧フニ是他ナシ 時勢ノ該地ニ適セサルナリ 時ノ兼任明王院住職常観僧都ト檀徒一同此衰頽ヲ憂ヒ堂宇ノ移轉ヲ謀リ其筋ノ認可ヲ得而シテ後晝夜努力ヲ重ネ併セテ十方施主ノ浄財有志ノ助力ヲ受ケ本日ヲ以テ本堂庫裡及ビ土蔵等従来ノ儘ヲ移轉シ増工建築ヲ竣シテ本尊ヲ移シ安置ノ式ヲ了ス
昭和四年四月五日
葛尾山 福性寺 壽命院」

壽命院は『丹波志何鹿郡部』の寿命院に該当するものだろう。

また『丹波志何鹿郡之部』に報恩寺の昌宝寺について、「同村葛尾山ノ境内ヨリ引ト云伝フ」とあるから、昌宝寺も葛尾山に由来するものなのかもしれない。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351935&l=1351031

すなわち、

「一 隆永山 昌宝寺 曹洞宗 報恩寺村 在中西ニ 同村葛尾山ノ境内ヨリ引ト云伝フ 福知山久昌寺末 釣鐘アリ 本尊聖観音 同郡十四番ノ札所ナリ」(『丹波志何鹿郡之部』綾部史談会版27頁)


(3)山寺の道標

報恩寺の東、三坂峠の方向に進んでいくと、引田池の北岸に「右 おばた 左 山てら」の道標がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=351944&l=1351057

「右 おばた」は小畑地区(三坂峠を越えて鍛治屋、ないし広義には袋峠を越えて小西)に至る道である。

「左 山てら」が、葛尾山福性寺を示しているだろう。

現在の車道は、この地点より200メートル東でY字型に分岐している。そのため現代の感覚では一見、道標の位置はこの車道のY字分岐の地点であるべきのように見える。

しかし陸地測量部の二万分一地形図「福知山」(明治26年測図、明治29年製版発行)では、山寺に行く道はこの池の北岸の地点から東北に、舌状の緩やかな丘陵を越えて進んでいる。すなわちここが山寺への分岐である。従って、道標の位置はここでよい。

「左 山てら」の道標から、古道は北北東に進んでいく。竹混じりの林の中を蕭々と越えていく一間幅の道である。


途中、道の北側が四角く削平されている。作業小屋かもしれないが、小規模な堂か何かがあったのかもしれない。


この道は聖と俗とをわかつトンネルであろう。この道をくぐり抜ければ真言の霊地である。


(4)葛尾山福性寺旧跡

谷を遡る農道の終点から谷沿いの歩道を詰める。左右に階段状の谷田の跡があり植林されている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352008&l=1351108

『丹波志何鹿郡部』にいう「門前百姓一軒往古ヨリ有」もこのあたりにあったのだろうか。

谷沿いの道から東側に少し上がったところ、小規模な平坦地のうえに五輪塔の部品らしい丸石が転がっている。


さて少しだけ谷を上って二俣の合流点、標高120メートル付近に広い平地があるが、谷田にしては礫が多く、瓦の破片も散乱している。

ここに「葛尾山福性寺旧跡」の木製標柱が立てられている。

この地点で合流する西側の谷を詰めていくと谷沿いに棕櫚の樹が立っている。

次にこの地点で合流する東側の谷だが、国土地理院の地図ではこの谷に破線の道が描いてあり、標高190メートル付近に寺を示す卍が示してある。この卍の地点は急傾斜の谷の合流点であり、大きな寺が立地できるようなところではない。地図の通りに谷底の道があるわけでもない。

おそらく、陸地測量部の二万分一地形図「福知山」に描いてある福性寺の場所を、二万五千分一地形図作成時に現地確認なしで写したためにこのような描画になったのではないだろうか。

ただしこの卍の地点よりわずかに東、標高200メートル付近には5メートル×15メートル程度の小規模な平坦地がある。このことは後に記す。ここでいう平坦地の規模は直観的なもので、厳密に測定したものではない。以下同様である。


(5)尾根A

「葛尾山福性寺旧跡」の平地の背後、北側の尾根に続く道がある。これをここでは尾根Aとする。

尾根Aの道を進んでいくと少なくとも三段の平地がある。

ひとつは標高150メートル付近のもので、5メートル×2メートルほどの小さな平地である。

尾根の東側を切り返しながら上っていく道をさらにたどると、標高200メートル付近に二段の平地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352013&l=1351108

二段のうち上のもののほうが下のものよりやや大きく、五輪塔の部品のように思われる石(丸い石や蓮華状の石)が散乱している。

『丹波志何鹿郡部』にいう「別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ」という記述が腑に落ちるようでもあるが、現時点ではこの地点は何の跡かわからない。


(6)尾根B

「葛尾山福性寺旧跡」の平地から東を見ると古道が切り返しながら尾根を上っている。これを尾根Bとする。

この上りはじめのあたりにも棕櫚の樹がある。

道は舌状の尾根をU字型に回り込み、ひとつ東側の谷に入る。

このU字型に回り込む地点は一間幅で彫りも深く、浄福に満ちた道である。

この「ひとつ東側の谷」の左岸、標高170メートル付近に5メートル×20メートルほどの小さな平坦地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352010&l=1351115

この平坦地をすぎると道は切り返しながら尾根Bを這い上がっていく。

急傾斜の斜面であるためヘアピンの道の一部分は崩落している。

尾根上に複数の平坦地が目に入るが、さらに古道をたどっていくと標高230メートル付近に相対的に大規模な20メートル×30メートルほどの平坦地がある。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352015&l=1351115


空山の山頂から南西270メートル、国土地理院の地図上で広葉樹林の記号のある地点である。

等高線が舌状に飛び出している。

この地点は事前の空中写真閲覧により、何かあるので要チェックであるという印象を得たところであった。

平らにならされた石が転がっており、柱の礎石と思われる。


上に「卍の地点よりわずかに東、標高200メートル付近には5メートル×15メートル程度の小規模な平坦地がある」と記した。

これは「礎石のある一番上の大規模な平坦地」の西側の下にある。

国土地理院の地図における卍をめざして破線の道をたどるとこの地点に達する。

しかし実際的には、上記の「礎石のある一番上の大規模な平坦地」から西へ降りたほうがよい。

この地点には白い茶碗の破片が落ちていたが、比較的新しく思えた。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352015&l=1351113

従って「礎石のある一番上の大規模な平坦地」から見ると東側の下には標高170メートル付近に小さな平坦地、西側の下には標高200メートル付近に小さな平坦地があるといえる。

この大規模な平坦地から下には、尾根上に多数の平坦地が連続している。

先に、道は舌状の尾根をU字型に回り込み、ひとつ東側の谷に入ると記した。

話を戻して、U字型に回り込む標高約150メートルの地点から、東側の谷に入らず尾根上をそのまま上ると、尾根道があり、連続する平坦地があらわれる。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352007&l=1351111

そして階段状の尾根は先ほどの大規模な平坦地まで続いているのである。

『丹波志何鹿郡部』に「往古ハ此山ノ尾通リニ本堂跡石場多シ 今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」とあった。

直観的には、礎石のある一番上の大規模な平坦地が本堂跡のように感じられる。

そして「尾通リ」に連続する平坦地の数は、数え方にもよるが13個あるから、「十三堂跡」と合致するように思える。

実にこの一連の寺跡の圧巻は、尾通りの十三堂跡である。

上っても上っても次から次に平坦地があらわれる。

直線状の尾根の標高170メートルから標高230メートルまで、平坦地が直列して樹林に埋もれている。

この尾根は山麓の報恩寺からも遠望することができる。

心象のなかでこの尾根のイメージから樹木を取り払い、そして十三堂の面影を投影する。

吉野山のように、空山の中腹に堂宇が畳み重なる壮観が見られたことであろう。

「往古」はこちらの尾根が、葛尾山の寺院のメイン部分だったに違いないと思わせるものがある。

ただし「今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」の「今ノ寺」というのが木製標柱の立っている「葛尾山福性寺旧跡」のことだとすれば、「今ノ寺ヨリ西ニ十三堂跡」は「今ノ寺ヨリ東ニ十三堂跡」であってほしい。

『丹波志何鹿郡部』の時点での「今ノ寺」は尾根Bより東にあったのか、それとも「十三堂跡」の認識が誤っているのか、『丹波志何鹿郡部』の記述の西と東が違うのか。

「今ノ寺」と「十三堂跡」の位置関係の問題は課題である。

以下の点も地元でなければわからないことである。

・「有門」の門の場所
・「別ニ薬師本堂三間半四面南向ナリ」の場所
・「門前百姓一軒往古ヨリ有」の場所
・「谷水ヲ字ニアカノ水ト云所有」の場所
・「東ニヂャウチウ坊(云)所アリ」の場所
・「今ノ本堂上ニ字正センナト云所有」の場所

アカノ水のアカは徒然草に「閼伽棚」という言葉が出てきたり英語でも水に関係する言葉としてaquaがあったりするが、水を示すサンスクリットに由来するものだろう。

多谷福性寺の掲示をもとに簡単な年表を下に整理しておく。

三坂女郎の悲劇は1559年(および1579年)であった。

良円亜闍梨の中興開山は1593年だから、三坂女郎の悲劇の時点では、葛尾の寺はおそらく荒れていたのだろう。

【年表】

953(天暦7年)
「當山ハ人皇六十二代村上天皇ノ御宇天歴七年京都六波羅蜜寺空也上人ノ開基」(多谷福性寺掲示)

1156……保元の乱
1159……平治の乱
「時ニ保元平治ノ乱兵火ニ全焼シ後五ヶ年ヲ経十八畳一棟ヲ設ケ本尊而已ヲ安置ス此ノ間四百八ヶ年ノ久シキニ亙ル」(多谷福性寺掲示)

1593(文禄2年)
「文禄二年越後ノ人良円亜闍梨図ラズ此地ニ来リ稀有ノ霊山ナルヲ惜ミ再建セリ今中興開山ト称ス」(多谷福性寺掲示)

1929(昭和4年)
「本堂庫裡及ビ土蔵等従来ノ儘ヲ移轉」(多谷福性寺掲示)

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