水源の里 市茅野のシャガ
冬晴れの日、大田和を経て宝尾を目指した。
道中、あちこちに獣の足跡が見られた。
大田和では住宅跡の石垣のかたわらに、庭木らしい寒椿か山茶花か、赤い花が人知れず咲いていた。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」の言葉通り、誰もいない冬枯れの山中、今も庭木の役目を果たそうとするように深紅の花を懸命に広げているのだった。
花の横に立って上を見上げると、木々の白い枝の間に青空があった。
大田和の背後の斜面を再び這い登った。
振り返ると冬の日本海が青く広がっていた。
境界尾根に達すると南側に丹波の山々が霞みつつ重畳して見えた。
尾根筋を東にたどると、まれに樹間がひらけて展望の得られる場所があり、青葉山と大浦の空山が豁然と見えた。
青葉山麓の一帯にも中山寺や松尾寺など仏教の拠点が点在している。西麓に見えるのは松尾寺だろうか。
大田和にはかつて大宝寺があり、宝尾には一乗寺があった。
宝尾より東の牧山とあわせ、これら一連の尾根筋に位置していた山岳仏教の拠点はひとつのグループをなすものとして理解できるのかもしれない。
北側に大田和、南側に宝尾を擁し、日本海と丹波の山並の両方が展望できるこの尾根が山岳仏教の適地であることは、地図を見るだけでなくこうして実際に歩いてみることで、確かな事柄として実感されるのだった。
【以上は大田和に関する記事と重複。写真はそちらの記事を参照】
更に東にたどる。
穏やかだった尾根の傾斜が厳しくなった。
這い上がると三角点490メートルの山頂である。
このピークは山麓の川上からも、その鋭い円錐の山容によって直ちに視認することができる。
「宝尾山縁記」に
「高く峰がそびえ、その峰に観音を安置した宝形造りの高塔が建てられて、朝夕太陽を受けて擬宝珠が輝き、激しく風を受けて鳴り響くことから鳥たちは大空に大きく輪を描いて止まろうとしない様を、人々は『鳥とまらず』と名付けた」(『大飯町誌』1989)
とあるのは、この山に違いなかった。
この山頂はいま、樹々のため展望は断片的である。
しかし仮に塔があれば、若狭の海と丹波の山、三六〇度の雄大な展望が得られたかもしれない。
さらに尾根を東北に進むと、境界尾根のほぼ頂きにまで、竹の勢力が及んでいた。
この竹は宝尾の存在を示す徴表でもある。
道のない斜面を宝尾へと降りた。
地滑りの滑落崖であろう。
やがて炭焼の跡なのか祠の跡なのか、小さな窪みがあり、さらにその隣に石積の遺構があった。
神社のような石段もあり、宝尾の権現の跡らしかった。
「宝尾山縁記」に、権現の宝剣と脇差に関する物語が含まれている。
「権現に奉納してある宝剣は、人皇第四〇代天武天皇の納められた剣で、大友皇子がひそかに天武を殺そうと謀ったとき、それが露顕して天武は当山に落ち延びられ一乗寺で軍備を整えられ、権現に祈願されて納められたのがこの宝剣である。また、権現に納められた脇差の起こりは、一人の旅人がこの山を訪れ、拝殿に休憩し寝込んでいたとき、大蛇が出てきて旅人をひと呑みにしようとした。そのとき旅人の腰の脇差がひとりでに抜け出て大蛇をみじんに切り裂いてすぐに鞘に収まった。旅人はそんなこととも知らず目を覚ますと、大蛇がみじんになっているのに驚き、所持する脇差が血潮に染まっているのを見て、権現の御加護で危うい命を助けていただいたことに感謝し、その脇差を洗い清めて本殿に奉納したということである」(『大飯町誌』547頁)。
権現の跡から降りていくと、墓地があり石仏が木漏れ陽の中に佇んでいた。
さらに移動すると、以前夏の雨の中で見た石仏と宝筺印塔が午後の淡い光の中にあった。
宝尾から北の尾根に登り返し、横津海に降りた。
そして福谷坂を経て川上に戻った。
宝尾の不動明王を移した鹿原の金剛院。それをひとつの舞台とした『金閣寺』で三島由紀夫は書いた。
「福井県とこちら京都府の国境をなす吉坂峠は、丁度真東に当っている。その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝陽の中から、金閣が朝空へ聳えているのを見た。」
夕方になると川上では山々の黒いシルエットの向こうに薄い金色の冬空が澄んでいる。
「高き峯あり 観音を安置し奉る堂は宝形造りなればぎぼしの空風はげしくして鳥とまらず 諸人これを見て名づけて鳥とまらずといふ」(宝尾山縁記)という「観音を安置し奉る堂」は、今でも心の中に像を結ぶことができるかもしれない。吉坂峠の東に位置するこの宝尾の「鳥とまらず」の山巓に。