Exploring the Universe of 'Satoyama' - Interactive Ecosystem of Nature and Human

京都里山讃歌

KYOTO SATOYAMA SYMPHONY

水源の里 市茅野のシャガ

愛宕山の雲心寺跡(京都)

Ruin of the Lost Unshinji-temple around Mt.Atago, Kyoto

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)
『北山の峠』を読む者にとって愛宕山系の「ウジウジ峠」は、その珍しい名前とともに、どこか心の隅に残るものがある。

金久昌業『北山の峠(中)』(ナカニシヤ1979年)は「ウジウジ峠」の項で、以下のように記す。

「それにしてもウジウジ峠とはまた奇妙な峠の名前である。いつの頃かわからないが昔ウジウジ谷源頭の峠近くに雲心寺という寺があったので、それが訛ってウジウジとなったのではないかと、ちょうどそのあたりに杉の手入れに来ていた高雄の人から聞いたことがある。その人も確たることはわからないと云っていたが、雲心寺という寺があった可能性はある。仏教が盛んだった中世の頃出来た白雲寺をはじめ、今に残る月輪寺などこの山には多くの寺があった。愛宕山千数百年の歴史の中には、神道、仏教、修験道といろいろの宗教が花咲いたのである。雲心寺のあったであろうと推定されるあたりは広く緩い傾斜地で、何らかの造形物があってもよいと思われるところである。」(158頁)

これによれば「ウジウジ」とは「雲心寺」に由来するものということだが、実際「雲心寺」が音便で「ウジウジ」になるのはありうることのように思われる。


(2)
梶川敏夫「平安京周辺の山岳寺院(京都府)」(『仏教藝術』265号、2002年1月)に、雲心寺に関する記述があった。(オリジナル文献は屋木英雄・丸川義広・宮原健吾・高橋潔「京都・愛宕山中の遺跡-雲心寺跡の発見」『仏教藝術』259号、2001年11月)

「遺跡は、愛宕山山頂から北北東約二・一キロ、頂部から急峻に下がる山腹がやや緩斜面となる辺り、標高六百メートル前後の東南東向きの山腹に位置し、東正面に霊峰比叡山を眺望できる。」(44頁)

ここにいう「愛宕山山頂から北北東約二・一キロ」「標高六百メートル前後」の地点を国土地理院地図で確認すると、ウジウジ峠の南方、標高600メートル付近で等高線間隔がやや広がり、尾根が中ダルミとなっている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=350435&l=1353847
「地すべり地形分布図データベース」では地すべり地形として記載されていないが、小規模な地すべりに似たような地形である。

この地点を空中写真で確認すると、尾根が中ダルミして平坦地になっていることが明瞭に確認できた。

『北山の峠』では「高雄の人」の話として寺の所在地を「ウジウジ谷源頭の峠近く」としているが、この標高六百メートル地点はウジウジ谷源頭でなく谷山川の側である。また「雲心寺のあったであろうと推定されるあたりは広く緩い傾斜地で、何らかの造形物があってもよいと思われるところである」としているが、この標高六百メートル地点を歩いた感想ではないようである。

ウジウジ峠の北側(ウジウジ谷)は大堰川の相対的に上流域であり、ウジウジ峠の南側(谷山川)は相対的に下流域である。北側は緩やかであるが、南側は浸食が強く、傾斜は急である。そのなかでは緩傾斜地に希少性が出てくる。

寺の景観設計としては北側よりこの南側斜面に立地するほうがよいだろう。寺からは京都市街地の展望が得られる。また下から上方を眺めれば、そそりたつ斜面に立つ寺を拝することができる。


(3)
上部からこの地点に下降することにより現地確認した。林道から下りる雨樋のような立派な山道があるが、林道との接点は、林道造成の排土で埋積されている。

この道を林道からわずか20メートルほど降りたところ、標高670メートル付近にも、尾根を削平したような台地がある。

寺の下方、高雄の方向から寺まで上る道が存在することはほぼ自明である一方、寺より上部に道があるかは不明であったが、実際現地確認してみるとこのように立派な道があった。

ヘアピンを繰り返して蛇行する道を下っていき、しばらくすると何段階かに削平された山中の台地があらわれ、作業小屋が立っていた。

「愛宕山山頂から北北東約二・一キロ」「標高六百メートル前後」に合致し、明確な段状地形のあるこの地点が、雲心寺跡と推定されている場所であるに違いなかった。

何より、ウジウジ峠に近いことが雲心寺の位置として落ち着く。

数え方にもよるが大雑把にグループ化すると五段ほどと数えることのできる段状地形であった。

西側には小規模な谷川があって、用水には事欠かないとともに、瞑想に適した水音も提供していた。

植林が施され、作業小屋もあることから、少なくとも林業関係者はこの人工的な段状地形を認識していたはずで、あとは雲心寺跡という認識があったかである。

植林のため現在は展望はないが、昔は京都市街地の方向が展望できたことが推測できる。実際、寺跡の上部の林道からは京都市街地や比叡山が遠望できる。


印象的なのは寺跡もさることながら道の立派さであって、おおむね一間幅の道が寺跡付近では二間幅もあるかと思われた。

この道を寺跡より下、標高540メートル付近まで降りたあと、道を離れ、道のない尾根を寺跡へと登り返した。

標高570メートル付近、寺跡より数十メートル下に、2メートル×5メートルほどの小規模な段状地形があった。そこから少し上ると先ほどの寺跡であった。

上記のように高雄から寺跡に行くためだけであれば寺跡で道が終わっていてもおかしくはないが、寺跡の北東側をかすめて道は上部へと続いている。ウジウジ峠とダルマ峠とをつなぐ道に接続していたものだろう。谷山川から芦見谷を結ぶ交通を考えた場合、必ずしもウジウジ峠を通らず、この雲心寺跡の道を通った方がよかった可能性はないか。谷山川-ウジウジ峠-ダルマ峠-芦見谷よりも、谷山川-雲心寺跡-ダルマ峠-芦見谷のほうが直線的だからである。


(4)
現地確認の時点では、上記の梶川2002に紹介するオリジナル文献である屋木英雄・丸川義広・宮原健吾・高橋潔「京都・愛宕山中の遺跡-雲心寺跡の発見」(『仏教藝術』259号、2001年11月)は未見であったが、現地確認直後に見ることができた。

屋木他2001は雲心寺跡と目される上記の「愛宕山山頂から北北東約二・一キロ」「標高六百メートル前後」の地点をA-1とし、それ以外にも愛宕山中の随所に段状地形を見いだしている。すなわちA-2,A-3,A-4,B,C,D,E,Fである。A-1よりひとつ西の尾根にも段状地形があり、それがA-2,A-3,A-4である。A-1,A-2,A-3,A-4,B,C,D,E,Fいずれからも須恵器などの遺物が採集されている。A-1で採集された遺物の年代は「平安時代前期後半、実年代では九世紀後半から十世紀初頭」である。

「山城国神護寺領高尾山絵図」に「雲心寺」の文字があり、「主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論指図」に「雲心寺舊跡壇」の文字がある。これら絵図の状況と合致するものとしてA-1が絞り込まれた。寛喜二年(1230)の「主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論指図」に「雲心寺舊跡壇」とあることから1230年の時点で雲心寺はすでに「舊跡」であったことが知られる。これらのことから雲心寺の存在時期が絞り込める。

労苦の末に雲心寺跡を特定したもので、不十分だが概要のみ紹介させていただいた。文献から答えがわかっていれば後追いは困難でないが、五里霧中のなかから尾根という尾根をたどり遺構を確認していくのは大変であろう。A-1以外の段状地形も機会があれば確認してみたいと考えている。瓦は発見されていないとのことで、それが往時にも瓦がなかったということだとしたら、茅葺屋根か何かだったのかもしれない。

A-1の現地を見てから「主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論指図」に「雲心寺舊跡壇」として描かれた段状地形の表現を眺めると、雰囲気がおおむね一致しているように思えてくる。あとはこの「指図」の「雲心寺舊跡壇」が、4段+3段で計7段描かれているように見えることの検討も興味深いテーマだろう。

若狭大田和の大寶寺にちなんで「岩陰も木陰も迫も仏おはす山ぞ久遠の伽藍なりける」との感慨を書き留めたことがある。

雲心寺の仏はどこにいかれたのだろうか。

こうしてみてくると随所に堂宇の痕跡を残す愛宕山もまさに「岩陰も木陰も迫も仏おはす久遠の伽藍」と思えてくるのだった。

 

大田和と大宝寺(推定)
Lost Daihouji Temple upward of the Odawa Village, Takahama, Fukui

宝尾と摩野尾山一乗寺
Lost Ichijouji-temple around the ruin of Takarao Village, Ohi, Fukui

綾部の廃寺
Ruins of Temples in Ayabe

聞法寺跡(美山)
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愛宕山の雲心寺跡(京都)
Ruin of the Lost Unshinji-temple around Mt.Atago, Kyoto

報恩寺の葛尾山福性寺は尾通りに十三堂あり(福知山)
Ruin of the Lost Houon-ji Temple, Fukuchiyama

和久寺廃寺(福知山)
和久寺廃寺(福知山)

胡麻峠の密教寺院跡(舞鶴)
Ruin of the Lost Esoteric Temple under the Goma-touge Pass, Maizuru