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京都里山讃歌

KYOTO SATOYAMA SYMPHONY

水源の里 市茅野のシャガ

大田和と大宝寺[5]市茅野から大宝寺へ

Possible ruin of the lost Daihoji temple revisited from behind, accompanied with the detection of possible remains of branch temple, May 2011

 

 

 

 

 

 

 

市茅野から大宝寺へ

陸地測量部の二万分一地形図「三國嶽」には、市茅野と大田和を結ぶ小径が破線で記されている。また同じく、市茅野と横津海を結ぶ峠道が二重線で記されている。

この明治時代の地形図が示唆するように、市茅野から大宝寺へのトラフィックが可能であること。

横津海から市茅野へのトラフィックが可能であること。

それをたしかめたかった。

4月に山躑躅が山を彩り、若緑に山々が萌え始める。そして5月、シャガの白と藤の紫があらわれる。

早稲谷など上林の各地で、シャガがいちめんに咲くようになる。

(早稲谷のシャガ)

それは市茅野でも同じであった。


村の奥の神社のあたりでもシャガが咲き始めていた。


神社の裏から山にとりつく。


丹波と若狭の国境の尾根をたどり、標高点474mと三角点552mとの間にある鞍部をめざした。

この鞍部をここでは鞍部Aとする。

国境の尾根のうえに若干掘れた道があらわれたと思うまもなく、標高400m付近で送電鉄塔に遭遇した。

この送電鉄塔のところから、林道が尾根を横切り、鞍部Aまで続いていた。

陸地測量部の二万分一地形図に記されたユリ道は必ずしも確認できなかった。

鞍部Aに到達すると、双耳峰である青葉山の姿が正面に見えた。


この鞍部Aから、東の三角点552mへと直登した。標高差100m。

山頂では三角点が杉の落葉に埋もれていた。


この三角点に到達したあとは、おおい町と高浜町の境界尾根をくだるのみである。

細い尾根だが、大宝寺跡と目している地点に近づいてくると、山肌が何となく広がり、ふくよかな庭園風に感じられてくる。

尾根の北側が谷頭浸食で馬蹄形に落ち込んでいる。その落ち込んだ上の空間に紫の藤の花が揺れている。


このV字の谷が、大宝寺跡(推定)へとつながっているのだ。

水が湧き出すように流れる音がする。

湧き水だろうかという思いに誘われて、その音をたずね、流れに近づいてみた。

近づきながら気づいたのだが、上部に平坦地があるようだ。


以前は必ずしも認識していなかった平坦地。

そこから水が流れ落ちて音を立てていた。


標高410m。

大宝寺跡と推定している標高350m前後の地点より高いこの地点にも、平坦地があった。

 


平坦地の端に、テンナンショウが佇立していた。


平坦地の一角に水たまりがあり、そこから水がしみ出して、谷水の源頭となっているのだった。


この平坦地は人工のものだろうか、自然のものだろうか。


その平らさから、人工的な平坦地であったとしても不思議ではないとおもえるのだった。


空想するに、ここも大宝寺の一部分、奥の院のような一部分ではなかったか。

そして道は大宝寺跡(推定)からこの地点へと続いていたのではないか……。

その後、谷頭浸食によって道は崩落。交通が途絶したかたちでこの平坦地は谷の向い側に残った……。

そのようなことを空想した。


実際、夏に大宝寺跡(推定)を訪ねたさいも、寺跡と目したメインの部分より上部に道が続いており、それでいて、その道は中途で崩落して途絶えていたことには気づいていた。

その崩落した道の延長線上に、先ほどの新たな平坦地があると考えれば、心の中の辻褄は合うのだった。

高浜町郷土資料館『青葉山麓のみほとけたち-里の祈りと仏-』(1998)に、

「横津海地区には何躯かの朽損仏がおまつりされていますが、言い伝えによると、いつの頃かはわからないが、集落の中を流れる前川が豪雨で増水したときに、上流から流されてきたということです。」(28頁)

とある。

仏像の作風が「平安時代後期」(同30頁)とされていることから、寺院の存在時期も推定できる。

V字谷の源頭にあるこの標高410mの平坦地に仏様がおられたとすれば、廃寺後、浸食にともなって仏様が流れていかれたという想像に現実味を感じることができそうだった。

大宝寺跡(推定)へとくだっていく。

上記『青葉山麓のみほとけたち-里の祈りと仏-』に、「かなりの規模の寺院の存在がうかがえる」(30頁)と記された大宝寺。夏に訪ねたときに確認した段々畑状の地形があらわれた。


以前確認したとおり、この段々畑状の地形の一部分は石垣で補強されていた。


そして段々畑よりも広々と加工された、いくつもの平坦地。

石垣も伴っているこの人工的な地形が、何の遺構でもないということは考えがたかった。


数ある平坦地のひとつで、エビネが二本たたずんでいた。


この大宝寺跡(推定)を後にして、竹に覆われた参道(推定)をくだった。


大田和の村落跡にはまだ椿の花が咲き残っており、藤の花の紫を背景にして揺れていた。


大田和から谷をくだり、横津海の奥の林道におりたあとの目標は、谷を西に詰めて、市茅野に戻ることだった。

標高点268mの西南にある標高250mの鞍部(ここでは鞍部Bとする)をめざした。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=352737&l=1352924

陸地測量部の地図に描かれたような道は確認できなかったが、急斜面を這い上がって鞍部Bに出た。

斜面を這い上がる途中から雨音が顕著になり、不安を募らせるように、驟雨が降ってきた。

雨音のなか、標高差50mを登ると、林道に出た。

三国岳とその南東900m、生守山と目している標高545mの山(丸山)とが見えた。


風にあおられた谷霧がこの山の斜面を切れ切れに覆っては漂っていくのだった。


陸地測量部の地図に描かれた道は、大雑把には林道と一致しているはずだった。

雷雨が打ち付けるなか、陸地測量部の地図に描かれたとおりの道をさがすことには限界があり、林道をたどった。

標高点545mが姿を変えながら視界の右側に見えつ隠れつした。

鞍部Aに戻ってきた。

ここからは往路と異なり、林道をさらに西にたどって市茅野の奥、関屋に越える坪谷峠(仮)に出た。

ここからは南に市茅野へと下るばかりだった。

雷雨はやみ、あたりは静寂にひたされてきた。

降りていくと、峠道は緑のシダに彩られるようになった。


谷へ降りてきたころ、斜面はいちめんのシャガにおおわれた。


明滅する燐光のように、緑の斜面のなかに白いシャガの花が揺れているのだった。


シャガの花は先ほどの驟雨に打たれて、透明なしずくを載せ、玲瓏とした透明さをまとっていた。


こうしてシャガの絨毯につつまれながら、市茅野の神社に戻ってきたのだった。


市茅野から大宝寺跡(推定)、大田和、そして横津海の奥の谷から市茅野にもどってくるトラフィックは、明確に掘れた古道は大田和と大宝寺跡(推定)の周辺にしかないものの、不可能ではなかった。

ただし今回、林道に依存した部分が大きいということはある。

市茅野と大宝寺跡(推定)との間に、鋭い三角点552mがあるため、その間のトラフィックはけっして平坦なものではない。

しかしその間の距離は2~3kmであって、けっして遠いものではないこともたしかである。

牧山、宝尾、大田和とつづく山上の寺院の分布、それと上林との距離的な近さを実感したく、このような経路をたどってみたのだった。

はじめて大田和を訪ねたころ、「青葉山を取り囲むこの一帯は深い山中でありながら、山より更に存在感の大きな海に全身が融け込んでいき、西方浄土という言葉が口をついて出るようなひとつの世界である。」と記した。

憶測ではあるが、ここに見た標高350~400mの大宝寺跡(推定)の付近から北方が、今より樹木が少なく、或いは樹木が切り拓かれていたら、どうだろう。

海が見えただろうか。

ここで心を澄ましていた古人も、緑の山々、そしてその向こうに霞む蒼い海、その重畳するなかに立ち上がってくる大きな感覚に陶然と身を委ねていたのではないかと想像されてならないのである。


この記事の後半のシャガの写真は、ZUIKO DIGITAL ED35-100mmF2.0で撮影した。

OLYMPUS ZUIKO DIGITAL ED 35-100mm F2.0

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