京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

木住峠 Kizumi-touge

Kizumi-touge Pass


 

 

 

 

 

 

木住峠

遊里から木住峠に向かう林道沿いの石仏堂


『北山の峠』(下)で「この道を地図で見ると殆どが尾根を用いた巻き道なので、谷道が多い遊里からの道よりも、この清水からの道の方が或いは古い時代の街道だったかもしれない。私にはそんなに思えるのだが、まだ歩いたことがないのでわからない。」(97頁)とする清水道は貫禄のある道である。(下記写真2枚)

清水道
清水道

鬼住峠の清水ルートに意表を衝かれる

大栗峠に続いて、深山の臥龍のような道を経験した。

鬼住峠の清水ルートである。

鬼住峠は田辺(西舞鶴)街道の最後の峠である。

上林の側は遊里ルートと清水ルートがある。

遊里の肥刈谷は、その名の由来が文字の通りであれば、肥草を刈った谷なのだろう。

遊里から入っていくと祠が2つある。

北向きに峠への谷に入るとシャガが群生して白い花が揺れている。

林道終点で谷が分れて複数の堰堤があるが、左の谷に入る。

谷沿いにしばらく進んだあと、道は西側の斜面にとりついて、植林の中を上昇していく。

少しわかりにくいところもある。しばらくすると前方に光が見えて、峠である。

遊里の側から来てまず出会うのは、峠の直下にある「右 たなべ 左 山みち」の道標であり、次は地蔵菩薩の塔である。

そして峠に「右 志みづ 左 田辺」の道標がある。

このうち最初の「右 たなべ 左 山みち」は地面から抜けて倒れた状態である。

地蔵菩薩の塔の存在は『北山の峠』(下)には記されていないが、苔むしているなかにも岸谷・遊里・清水の署名が読める。

峠は5mばかり切り下げられていて、これらの石像物はいずれも峠の南側にある。

「右 志みづ」の道は水平なユリ道として峠に到達している。

峠の南側が二手に分れ、その片方が水平なユリ道である点は、遠坂峠の構造に似ている。

峠から清水ルートに入る。

『北山の峠』(下)は清水ルートについて、

「この道を地図で見ると殆どが尾根を用いた巻き道なので、谷道が多い遊里からの道よりも、この清水からの道の方が或いは古い時代の街道だったかもしれない。私にはそんなに思えるのだが、まだ歩いたことがないのでわからない。」(97頁)

としている。

このルートは1m幅の安定したユリ道で、時に倒木はあるが道の形が維持されている。

獣が盛んに通り道としていることが、足跡から感じられる。

途中から弥仙山や大栗峠が見えた。

やがてユリ道の端、清水の尾根の乗り越し地点に来る。

標高としてはこの地点のほうが、鬼住峠自体よりも高い。

西側へ、遊里ルートの起点である遊里の谷に降りる道も合してきているようである。

(戦前の地図に記されている通り、この乗り越しの南側に神社がある。)

尾根の東側に乗り越して下っていくと、石仏の祠がある。

正直、声にならない声を挙げさせられたのはこれ以降の道の立派さである。

急斜面なので道が細くなる可能性も想定していたが、その逆であった。

一間ないしそれ以上の道が、斜面をえぐりながら延々とヘアピンカーブを描いて下っていた。

日光のいろは坂に似ている。あるいは穿入蛇行する川を見るようであった。

人の背丈より深く彫られ、洞窟の中を行くような道に突入した瞬間、この道があの大栗峠弓削ルートと同じ存在感を持ち、その延長にある街道筋であること、『北山の峠』の「この清水からの道の方が或いは古い時代の街道だったかもしれない」という記述が本当であろうことなどを一瞬にして否応なく感得させられてしまった。

それがたとえ違っていてもかまわないが、ともかく背丈を超える道の掘割の存在感は圧倒的であった。

里村紹巴は「天橋立紀行」で「丹波さかひの岸谷峠は月に成りて上林かが別館に入り」と書いている。

岸谷からどの峠を越えて上林に入ったかは特定できないが、里村紹巴がこの道を歩いたかもしれないという感触がいわば詩的真実のように迫ってきた。

もちろん遊里ルートのほうが距離的には若干近道であり、複数の祠の存在からも、道の感触からも、重要性は否定できない。

清水ルートは鬼住峠の直前で若干南に戻ってしまう。

寛政十一年丹波國大繪圖でも遊里からのルートが線で示されている。

ただ谷道より尾根道のほうが歩行にも管理にもメリットがあったであろうことは推測できる。

遭遇した雉子が慌てて逃げていく。

この道はやがて谷に下りて、その谷に下りる地点に小石の乗った台座があり、それからさらに下った清水からの取りつきにかなり古そうな石仏があった。

峠の取りつきや、谷道が尾根道に転じる地点に石仏があることが多い。

この付近にも、遊里側とりつきと同じく、シャガの花が開いていた。

たしかに尾根の乗り越しの周辺には石仏の祠や神社の存在があるにしても、その参道としての機能だけでなく、やはり洞峠や大栗峠を越えてきた田辺街道の最後の峠としての重要な役割と交通量があり、道普請もされてきたのではないだろうか。

綾部自然の会『綾部の古木名木100選~緑と文化の遺産~』(1997)の「井関家のクロマツ」(五津合町清水)のところに、

「ここの庭に明治の頃まではモミの大木があった。古株を測ったら幹周が6.2mあったという。古老の話によると、その昔、大栗峠にたどり着いた旅人がこのモミを望んで八左ヱ門のモミが見えたと安堵したという」(116頁)

という記述がある。

おそらく「清水にあるモミの大木」が見えるのは意味のあることなのだ。

清水からひとやま越せばそこは田辺である。清水が鬼住峠へのひとつの起点だからこそ、清水の存在が視認できれば安心できる。

深緑をたたえた清水のクロマツは、上林の田園のなかにありながらも、日本海の潮風の予感を伝える徴表なのだ。

『北山の峠』の著者がこの道を歩いていたら、どう表現しただろう。道の感触を確かめながら、降りてきた清水ルートを登り返して峠に戻り、遊里の肥刈谷に帰ってきた。


(追記)別の日、岸谷から小吹峠の谷をめざした。かもしかに遭遇。小吹峠の谷は細い谷で渡渉が多く、道はあるかないかになっていた。あなぐまにも遭遇。谷が二俣になっているところの中間尾根の端は段々畑状になっていて、人間が何かしら農耕をした跡と思われた。小吹峠から南に境界尾根をたどった。三角点438の北側から睦志が見えた。清水乗り越しに到着。乗り越しの南側の標高約400mに、石灯籠と神社があった。この神社の参道はさらに南側の鞍部に降りたあと、東北に切り返して、石仏の祠の直下で清水への峠道に合流しているのだった。ユリ道で鬼住峠へ。鬼住峠の岸谷側は、『北山の峠』の執筆時点ですでにかなり道が失われていたようだが、実際わかりにくく、倒木の回避も面倒であった。岸谷側からみると、右岸に平たい谷田の跡があり、東側の斜面にスロープ状の道跡が斜めに上がっているのが見えるところがある。ここが取りつきではないかと思われる。

金久昌業『北山の峠』(下)に掲載された峠。

『北山の峠』では鬼住峠と記しているが、ここでは木住峠とした。

なおこの峠の綾部側は、谷道である遊里ルートと、尾根道である清水ルートがある。『北山の峠』(下)では清水道について「この道を地図で見ると殆どが尾根を用いた巻き道なので、谷道が多い遊里からの道よりも、この清水からの道の方が或いは古い時代の街道だったかもしれない」としている(97頁)。