唐戸越のユリ道(仮称)
美山・唐戸越のユリ道(仮称)
唐戸越のユリ道(仮称)
昔、峡谷沿いに道を開鑿することは容易でなかった。
美山町の芦生と田歌のあいだ、唐戸渓谷も急峻な崖に挟まれた急流である。
明治時代の2万分1地形図を確認すると芦生と田歌のあいだは谷沿いの道でなく、山越えのユリ道になっている。
単に佐々里・芦生と田歌という村どうしを結ぶ村道としてだけでなく、雲ヶ畑街道の一部分をなしていたかもしれない道である。
(京都…雲ヶ畑…祖父谷峠…井戸…卒塔婆峠…八丁…品谷峠…佐々里…唐戸越のユリ道[仮]…田歌…五波峠…染ヶ谷…小浜)
この付近の旧版地形図は、明治時代の2万分1ではなく大正時代の5万分1であれば、スタンフォード大学の旧版地図リポジトリにて見ることができる。
https://purl.stanford.edu/sg892mr4720
※ 明治時代の2万分1には記載されていない渓谷沿いの新道が、大正時代の5万分1には記載されているのを見ることができる。
『北山の峠』上巻では「権蔵坂」の章で「出合橋-田歌間の断崖の道は車道開通以前は上部にあったのではないかと思う」(150頁)「地図の等高線を見た限りでは、あっても不自然ではないと思う」(152頁)としている。
『北山の峠』で「この上部にあったであろうと思われる道をまだ踏行していない」(150頁)となっているこの道を確認したかった。
2018年9月17日、唐戸渓谷を小雨がつつんでいた。
まず出合橋で、擁壁とフェンスの上を眺めた。
ちょうど「出合」のバス停のところで擁壁に隙間があり、細い道が切り返しながら尾根をあがっていっていることが確認できた。
かつて佐々里から田歌へと向かう旅人はここから山にとりついたのだ。
尾根を少し進んだが簡単な確認にとどめて出合に戻り、芦生の正明寺に向かった。
正明寺の付近の小字が「坂尻」であることも、山越えの道の取り付きであることを示している。
取りつきは少しわかりにくいが寺の後ろからシダのなかを切り返していく。
深く掘れた古道が、植林の斜面をスライドしてあがっていく。
なおここでは余話になるのだがこの古道より下部、正明寺南西の山裾に、石をまとめて積んだ何らかの遺構が複数存在している。経塚か墓か。気になるところである。
(この写真のみ2018年9月7日撮影。これ以外は2018年9月17日撮影)
さてこの古道は尾根に到達するまでに十回ほど切り返す。
尾根に到達した。
寺からの標高差約100m。
ここで出合から田歌に通じる道が合流していた。
(右下 芦生からの道 左上 田歌への道)
この分岐に石の道標があるのではないかという予期もあったが、さっと見た限り、見当らなかった。
北西へ進めば田歌だが、ただちに田歌方向へ向かうのでなく、まず佐々里方向を確認するため、左の出合橋の方向へ尾根を降りていった。
この道はいったん植林のなかをZ字型に切り返したあと再び自然林のなかとなった。
佐々里への車道や由良川が垣間見え、渓流の水音が大きくなってきた。
出合橋は近い。
先ほど確認した、擁壁の真上の同じ地点まで降り、道が出合橋に接続していることを確認して、引き返した。
途中、樹々の隙間から唐戸渓谷をはさむ対岸の急な斜面が見え、漂う霧に包まれていた。
秋になればこの山が、紅や黄の紅葉に色づいてくるだろうか。
再び、道の分岐点に戻ってきた。
ここからいよいよ、田歌へと向かう道に踏み出す。
道はわずかな区間、尾根の東側に入った。
それも束の間、道は尾根の西側に移って進んでいく。
樹間から、由良川の流れがわずかに見えた。
この道を境に、下は植林、上は自然林と分かれている。
この植林と自然林との境界は、下の車道から見上げてもわかるし、空中写真や衛星写真でも確認できる。
見上げると上方の斜面に何か広葉樹の大木があった。
さらに進むと、道が迫をまたぐところに、炭焼窯の跡があり、石が積まれていた。
ここまで緩やかに上下しながらもほぼ水平に感じられていた道は、この炭焼窯を過ぎたところから、明らかな上昇に向かった。
さらに進むと、地形図にもあらわれている尾根の小さな鞍部を越す標高500mの乗越の地点に達した。
https://maps.gsi.go.jp/#17/35.309203/135.696602
この乗越の地点にも、何か石造物の存在可能性を予期していたのだが、見いだせなかった。
ナツエビネだろうか、時期を過ぎかけたエビネの類がこの乗越の道を彩っていた。
道はこの乗越を過ぎてしばらくは薬研状に掘れた道となり、植林のなかを進む。
まもなく、トチの大木があらわれた。
この樹は旅人の往来を何百年か見守ってきたに違いなく、それが今はしずかな山中で小雨に包まれていた。
唐戸渓谷に見られるチャートの地質がこの山中にも見られ、先人は固いこの山肌に根気よく作道したに違いなかった。
道は斜面を縫って蛇行しながら進んでいく。
ふと、水流の音がきこえてきた。
「この道は小さな滝も見える道」「一服の清涼剤」などの言葉が心に浮かんだ。
しかしその先をのぞき込んだ瞬間、清涼感は暗転した。
急流であるこの谷は浸食が激しく、ユリ道もここで深く寸断されているのだった。
https://maps.gsi.go.jp/#17/35.311466/135.696849/
昔からこの地形だったのだろうか。
それとも最近、浸食が進行したのだろうか。
仕方なく、泥で滑りやすい斜面をいったん慎重に深い谷底にくだり、そして再度、対岸へ這い上がった。
這い上がった対岸から改めて、道が谷をまたぐ地点を眺めた。
芦生ないし出合から来た道はここで岩に乗り、下の写真の右側にある一本の木のところで岩の絶壁に遭遇して切れ落ちていた。
昔はどのようにしてこの岩から対岸に渡っていたのだろうか。
木橋を渡していたのだろうか。
しかしその施工も維持も、この急流では大変であろう。
まして牛馬はそこを渡れたのか、米や炭、魚や塩を担いだ人がここを渡れたのか。
ここは一連のユリ道のなかでも大きな難所といえそうだった。
この地点を過ぎても、チャートを開鑿した急斜面の道はつづいた。
芦生からの取りつきは太い古道だったが、急斜面のユリ道は時間の経過のためか元々か、存外細くなっていた。
一本の樹が大きな露岩を抱いてわだかまっていた。
ふと道沿いに松が卓越するようになり、道は松の倒木に覆われた。
やがてまた炭焼窯の跡に遭遇した。
問題はその先だった。
また崩落だ。
今回は水のない迫だが、遥か見えない下方まで滑り台のような斜面となっていた。
現代の地形図で崩落の記号が複数しるされていることから、心配していたまさにその地点だった。
https://maps.gsi.go.jp/#17/35.313129/135.694413/
この崩落はおそらく比高150mしたの車道あたりまでつながっている。
もし滑落してストップが効かずむしろ加速したら……。
先ほどの小滝の急流をまたぐ地点とあわせ、この経路における危険箇所である。
炭焼窯の跡からやや上昇気味に、この不安定な地点を乗り越えねばならなかった。
先ほどの強い浸食の谷をまたぐ地点、およびこの崩落の地点はいずれも、下降気味でなく上昇気味に乗り越えなければならない(出合から田歌に向かう方向で見た場合)。
向こうを見透かして、降り気味でなく登り気味に経路を探せば、道のかたちが見えてくる。
そのあと、小さな路肩の崩落もあったが、道はしばし安定した。
一方で樹の皮には熊の爪跡らしき傷があった。
次第に道は右へ右へと巻いていく。
地形図でわかるとおり、谷をまたぐ地点へと近づいているのだった。
谷をまたぐ場面では道は植林のなかに入り、そこには炭焼窯の跡があった。
その脇を谷水が細く流れ落ちていた。
谷をまたいでからの道には倒木が丁寧にも数珠つなぎとなっており、乗り越えるのに手間がかかった。
尾根をまたぐ最後の乗越に来た。
猪なのか泥を練ったぬた場があった。
そして複数の炭焼窯の跡があり、明瞭な石積が残っているのだった。
縷々述べてきたようにこの道沿いには多数の炭焼窯跡がある。
炭も運ばれた道だということがいえるだろう。
この乗越から道は北側の緩やかな斜面を降りていった。
道は深い下草に覆われるようになった。
道は植林のなかを何度も、ヘアピンで切り返していく。
こうした古道にはしばしば見られることとして、複数の世代の古道があざなえる縄のごとく交錯しながら、斜面を徐々に降りていくのだった。
次第に、由良川に注ぐ谷の水音が聞こえるようになった。
途中、何か広葉樹の大木が佇立していた。
一部分は朽ちかけて樹皮と空洞が目立つが、それでも大きな体躯のうえに緑の葉を一杯にひろげ、旅人の姿を長年見守ってきた貫禄を今も漲らせているのだった。
道が谷に降り立つと、小さな砂防堰堤を越える水が滝のように流れ落ちていた。
この湿潤な谷にはヒルが居るため肌を露出しない備えが必要である。
谷沿いに降りていくと、車道が見えてきた。
これが田歌側からの取りつきの地点だ。
この取りつき以降は、現代の車道とほぼ同じ経路を、道は田歌へと向かうと思われた。
唐戸の急流を過ぎたあとの由良川は、しずかに幅広く流れていた。
あとは出合まで渓谷沿いに戻るだけだった。
川は、翡翠いろの水面に白いしぶきをたて、変幻自在に蛇行していた。
この樹々も紅葉の季節には味わい深く色づくに違いない。
昔の山越えの道と、今の川沿いの道。
その併走する感覚を確かめながら、長い車道を歩いた。
それにしても唐戸の渓谷の急流部には恐怖すら感じた。
この部分は川の勾配がきつく、岩のあいだを水の塊が轟々と大きな音を立てて暴れていく。
落ちたら助からない。
岩盤に制約されたこの川沿いを歩く安定した道をつけることはやはり難しかっただろう。
こうして出合橋に戻ってきたのだった。
今でこそ、ほぼ起伏のない車道で田歌から芦生に行ける。
しかし往時はこの山越えの道しか事実上なかったとしたら、田歌と芦生はあたかも別の空間であるかのように感じられたのではないだろうか。積雪期は尚更であろう。
大正の新道開通から数えれば、この山越えの道は使われなくなってから約百年。
浸食や崩落により滑落の危険を伴う場所もあり今となっては安全な経路とはいえない。