京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

世阿弥は1434年に洞峠を通過したか

Zeami on the Hora-touge Pass in the year 1434?


 

 

 

 

 

 

洞峠

世阿弥は永享六年(1434)、京から小浜を経て佐渡に流された。

吉田東伍によって紹介された「金島書」によってその様子を知ることができる。

「金島書

若州

永享六年五月四日都を出で、次日若州小浜と云泊に着きぬ。ここは先年も見たりし処なれども、今は老耄なれば定かならず、見れば江めぐりゝゝゝ(めぐり)て、磯の山浪の雲と連なつて、伝へ聞く唐土の遠浦の帰帆とやらんも、かくこそ思ひ出られて、

船止むる、津田の入り海見渡せば、ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ(津田の入り海見渡せば)、五月も早く橘の、昔こそ身の、若狭路と見えしものを、今は老の後瀬山。され共松は緑にて、木深き木末は気色だつ、青葉の山の夏陰の、海の匂ひに移ろひて、さすや潮も青浪の、さも底ひなき水際哉、ゝゝゝゝゝゝゝゝゝ(さも底ひなき水際哉)。

青苔衣帯びて巌の肩にかゝり、白雲帯に似て山の腰を廻ると、

白楽天が詠(なが)めける、東の船西の船、出で入る月に影深き、潯陽の江のほとり、かくやと思ひ知られたり。

海路

かくて順風時至りしかば、纜を解き船に乗り移り、海上に浮かむ。さるにても佐渡の島までは、いかほどの海路やらんと尋ねしに、水手答ふるやう、遙々の舟路なりと申しほどに、……(下略)」
※岩波書店『日本思想体系24』(1974年)250頁による


これによると5月4日に京都を出ていて、「次日」というのが翌日という意味だとすれば、一泊二日で小浜に到着している。「青葉の山」は青葉山である。

小浜に行くには、大原から花折断層に沿うて行く、八丁平から久多、根来坂を越える、祖父谷峠から八丁、佐々里を経る、弓削を経て知井坂を越える、などが考えられるが、七十代の世阿弥が短期間で小浜に行けるのはどの道かということが気にかかる。

この点について『奥上林村誌』(1956年)は、「観阿弥・世阿弥の奥上林通過」として、洞峠としている。

「謡曲観世流を[ママ]始祖といわれる観阿弥と世阿弥が、時の将軍義教の怒にふれ佐渡へ流された。これが米原より北陸へぬける道を通らずに北桑田-洞-奥上林-若狭の道を経ていることが最近或書によつてわかつた。なぜ遠みちをしたのであろうか。これは米原より北陸へ抜ける道は非常にその時代村と村との間も遠く道も洞峠以上にけわしく難路であつたことゝ今一つは中世時代舞鶴・若狭・京都の三方に通じる交通の要地として奥上林は重きをなしていたことによる。」(奥上林村誌31頁)

ここに「米原より北陸へぬける道を通らずに」とあるが、世阿弥は京都から陸路で小浜に行き、小浜からは舟で佐渡に行っている(金島書)。米原を通らずになぜ遠道をしたのかという問題設定なのだが、小浜へ行くために米原を通る可能性は低い。

そのうえで、「或書」によって判明したという「北桑田-洞-奥上林」の道は、田辺街道ではあっても小浜街道ではないから、なぜ小浜への他の近道を使わずに、遠道となる洞峠を使ったのかということは問題となる。

つまり「なぜ米原でなく洞峠なのか」ではなく、「なぜ典型的な小浜街道でなく、距離的には不利となる洞峠なのか」である。

林恒徳「世阿弥「金島書」の世界」(『山口大学教育学部研究論叢』第41巻第1部、1991年12月)は、

「第一曲「若州」によれば、永享六年夏五月、世阿弥は護送の役人に伴われて都を発ち、おそらくは琵琶湖を船で北上し、翌日には小浜に到着している。北上の途次、左岸には見慣れた比叡のお山が近くに見えて、やがてそれに連なり岸辺近くまで迫まる峨々たる比良連峯が世阿弥の視界に入ってきたはずである。また振りかえれば、三井寺のあたりをそれと認めることも出来たであろう。」

としており、「琵琶湖を船で北上」という立場であって、「北桑田-洞-奥上林-若狭の道を経ている」という立場には立っていない。

また、本間寅雄「吉田東伍と世阿弥」(『自然と文化』第58号、但しWEB版にて閲覧)では、

「八つの詞章からなるこの書は、まず「若州」から書きはじめられる。福井県の旧国名で、永享六年(一四三四)五月四日に都を立ち、つぎの日には小浜の港に出ている。敦賀とならぶ室町時代の有名な海港で、大津から船で琵琶湖を下ったという説もあるが、京都と小浜を直接陸路で結ぶ「若狭街道」(鯖(さば)街道)を歩いて小浜へ出たとみられる。短距離の上に、敦賀より佐渡には遠い小浜へ出て出帆しているためである。」

としている。
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00415/contents/055.htm

「永享六年五月四日都を出で、次日若州小浜と云泊に着きぬ」(金島書)だけでは洞峠を導けないから、『奥上林村誌』は「或書」が何かを明記してほしかった。