京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

草尾峠 Kusao-touge Pass


 

 

 

 

 

 

草尾峠

草尾峠

草尾峠は和知の草尾と瑞穂の水呑を結ぶとともに、横峠と連動した田辺街道の峠でもあった。

単なる村道でなく街道であっただけに、

「草尾峠の昔の道でも一間(二メートル)は十分あるさかいな。」(『和知の古老談』)

という立派な道である。

ただし現在は峠の北側直下を林道が通過しているのと、峠の鞍部だけは倒木に埋もれている。

峠には石の厨子があるが内部は空である。


■和知町教育委員会『和知の道-むかし物語』(2002年)には草尾峠について、以下の記述がある。

「…草尾峠は須要な京街道として参勤交代の通行路であると共に、丹後方面の海産物等を京都に運ぶルートとしても重要であった。」(巻頭「解説」)

「草尾峠は、田辺(舞鶴)や山家藩主の参勤交代往還の道筋であり、また若狭・丹後地方の人々やその他旅人の往来も多かったところから、近代まで旅篭も一軒あり、集落もあった。また狼が盛んに出没して荷物を運ぶ牛が怖がるので目隠しをして通ったとか、好物の油揚げを一ヶ与えるとそれで温和しく引き下がったなどの話も聞いている。また、この峠道の維持・管理は、廣野・大簾・出野・稲次の四ヶ村がこれに当たり、各村の庄屋が広野村に集まって、管理の方法を協議したという。」(2頁)

「船戸橋から南側草尾峠までを京街道として旅人の主要道路であった。船戸から六〇〇米ほど峠に向い進んだところで道が分岐しており、「右くさを、左わち」と刻まれた道しるべの石が昔を語る唯一の資料であったが、いつの間にか何者かに持ち去られ残念なことである。分岐点から二〇〇米草尾に向かった地に又分岐点があり、その場所に宿屋もあった。(現西村正宏氏宅)旅人の宿泊やすらぎの場であった。又道の維持管理等を協議する集会所でもあった。峠の麓の草尾にかつて七戸の集落があり、最初の家、白波瀬家は旅人を休養させる宿でもあり、又戸長甚五郎氏は若くして製糸(手繰)を開業され、女工も峠越しに三ノ宮から通勤した話も耳にした。」(67頁)


■戦前、和知の片山善三郎は「片山生」の署名で、草尾峠に関する記事を『下和知時報』に寄稿した(昭和10年~11年)。

「草尾峠は和知川に臨める廣野村より土師川の沿岸檜山村に通ずる藩政時代は山家や田邊の城主が江戸へ参勤交代のため通つた主要道路で高さ四七六米です且つ丹後の海産物を京都へ出す通路なので此峠を牛の背に海産物をつけて運搬する所謂牛追ひは當時農家経済には唯一の現金収入の方法であつたのです」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

と前置きしたうえで、伊能忠敬測量隊(厳密には永井支隊)、細川幽齋、鳥羽伏見の戦後の小浜藩兵、野田笛甫などの草尾峠通過について紹介している。

以下で片山に従って、それらの事例についてメモしておく。

■伊能忠敬測量隊

「一、草尾峠と伊能忠敬、我國測量の元祖伊能忠敬は草尾峠を測量して居ります伊能忠敬の「沿海實測録」には左の通り記載してあります
従丹波國檜山歴宮津及峰山至久美濱
丹波國橋爪村檜山一里四町五十七間粟野村廣野村和智大川岸三里十一町六間(中略)熊野郡久美濱通計三十一里二十二町九間」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

伊能忠敬とあるが上記のとおり厳密には永井支隊で、文化11年(1814)2月13日に草尾峠を越えたようである。「同十三日、朝曇天、終日微雨、六ツ時後、船井郡小出領、広野村出立、同村ノ追分、昨日打止ヒ印初、京街道測枝草尾、草尾川土橋一間半、野陣小休、字草尾峠、水野壱岐守領、川野二十郎知行所、……」
……『和知町史第一巻』655頁に引く『測量日記』


■細川幽齋・前田茂勝

「草尾峠と戦史、慶長五年關ヶ原の合戰に細川忠興は徳川家康に従つて東下る妻は大阪の邸に人質となつて殉死し、父細川幽齋(藤孝)は僅か五百人の手兵を以て田邊の舞鶴城に籠り大阪方より一萬五千を以て七月二十日より舞鶴城を囲み凡そ六十日關ヶ原の合戰に依り徳川方優勢となり九月十二日和睦して囲ひを解いたので九月十八日細川幽齋は手兵五百騎を引連れて田邊城を発し梅迫を経て横峠を越へて山家に出で廣野を通つて草尾峠を越へ當日檜山に宿泊しました(田邊城和睦志より)今より三百三十五年前即ち慶長五年九月十八日には細川幽齋は徳川方の勝利にて吾党の天下を謳歌して手兵五百騎を引き連れ得意になつて草尾峠を越へた事でせう、廣野田圃には九月九日の氏神祭をすませて稲刈に麦播きに百姓が物珍らしく見たことでせう。これが熊本五十四萬石の細川侯の先祖です。尚此年には前田茂勝大石甚助等の大将が草尾峠を越へて居ります。」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

山家の「肥後橋」も、肥後に転封になった細川氏が架橋を援助したので肥後橋であるという話がある。


■野田笛甫

「三、草尾峠と文人雅客、泉式部や小式部内待其他文人雅客の丹波丹後地方に遊んだのは多く草尾峠を越へず檜山より山陰街道へ行つて居ります、貝原益軒の西北紀行も第一日は鳥羽(吉富村)に泊り第二日は生野(天田郡上六人部村)に泊つて居りますから草尾峠は越へて居りません江戸の大儒者野田笛甫は草尾峠を越へて居りますが野田笛甫の詩集はまだ調へて居りませんが草尾峠に関する詩があるかと存じます。」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

「野田笛甫 郷土研究その二で草尾峠を越へた名士に野田笛甫のあることを書きましたが野田笛甫は寛政十一年六月二十一日田邊(今の舞鶴)に生れ名は希一と云ひ江戸へ出て大學者となり又詩人として有名で安政四年田邊藩執政となつた人です、野田笛甫の著した「得泰船筆語」は今も上野帝國図書館にあります。野田笛甫は田邊から草尾峠を越へて何回も江戸へ往復したものです、田邊を出発して草尾峠を越へ檜山で泊るのが丁度一日の行程だつたので草尾峠を越へ檜山で宿つた時の詩があります
影鵑横雲雲行疾 雲行鵑横月未出
天寒投宿萬山間 布衣如水夜如年
屈惜十載猶道路 骨痩高於山
客窓燈死風吹雨 驛外蕭々送馬語
宿檜山」
……片山生「郷土研究(その六)草尾峠(のこり)」『下和知時報』第一百三十七號(昭和11年2月26日発行)


■小浜藩主・酒井忠氏と小浜藩兵(1868年)

「明治維新当時鳥羽伏見等の戦に傷いた侍が赤毛布を着て丹後や若狭へ帰るために多数通行したことは古老の話で耳新しいことです。」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

「鳥羽伏見の役の時負傷した武士等が草尾峠を越へたと云ふ古老の話を前回書きましたが其時草尾峠を越えた武士は幕府方の若狭小浜藩の武士で草尾峠を越へて逃げて来たが山家藩のため撃退され上林谷を若狭小浜へ逃げて帰ったのです」
……片山生「郷土研究(その六)草尾峠(のこり)」『下和知時報』第一百三十七號(昭和11年2月26日発行)

「鳥羽伏見の戦いがおこり、福井小浜藩の落武者多数が、草尾峠や大栗峠を越えて帰藩する」『和知の古老談』

以上の伊能測量隊、細川幽齋、野田笛甫、酒井忠氏のいずれも、横峠(草尾峠とのセットで田辺街道を構成する)も越えているであろうことに留意しておきたい。


■草尾峠の維持管理

以上の通過例のほか、片山は「草尾峠の維持管理」についても述べている。

「四、草尾峠の維持管理、峠の頂上から山家村境谷までの京街道は廣野村、出野村、稲次村、大簾村の四ヶ村の責任で、山家村境谷より草尾の宮までは廣野村が掃除し、草尾宮より水呑境までは出野村、稲次村、大簾村より出夫し廣野村より奉行が出て監督した、そして四ヶ村の庄屋は四ヶ村講とて一年一回づゝ集まつて草尾峠の維持管理の相談をしたものです、この制度は大正年間まで續いて居りました。」
……片山生「郷土研究(その二)草尾峠」『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)

上引のとおり和知町教育委員会『和知の道-むかし物語』にも

「この峠道の維持・管理は、廣野・大簾・出野・稲次の四ヶ村がこれに当たり、各村の庄屋が広野村に集まって、管理の方法を協議したという。」

との記述がある。


■草尾峠越え、現代の例

「毎朝7時に二条駅で山陰線に乗り、立木駅からは歩いて草尾峠を越え、水呑へ。」

というのは松本経雄氏の経験談である。京都新聞に連載された記事から引いておく。

「毎朝7時に二条駅で山陰線に乗り、立木駅からは歩いて草尾峠を越え、水呑へ。40年以上前、不段寺住職だった芦田哲雄さんらが地域で養鶏を始めてからは、卵も買い付けるようになりました。…[略]…竹のかごにもみがらを敷き、横は新聞紙で覆って卵を入れました。卵を16貫(約60キロ)持ち、旅費を稼ぐために米2斗をかついで365日、村に通いました。鳥は毎日卵を産みますからね。荷物の重さに耐えかね、吐きそうになることもしばしばでした。」
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/tanba/102.html

■草尾峠を越えていない人々

上の片山記事に

「泉式部や小式部内待其他文人雅客の丹波丹後地方に遊んだのは多く草尾峠を越へず檜山より山陰街道へ行つて居ります、貝原益軒の西北紀行も第一日は鳥羽(吉富村)に泊り第二日は生野(天田郡上六人部村)に泊つて居りますから草尾峠は越へて居りません」

とあった。

このほか、「日本九峯修行日記」の野田泉光院は、美山から由良川沿いに和知を経て山家に入っているから、草尾峠は越えていないようだ。

また建田の金比羅さんの三義人の話は、歴史的事実自体が不明であるが、諸書をみると稲葉坂を越えたあとなぜか大簾に行ったことになっている。つまり由良川を遡るのでなくそうとう由良川を下ってしまっている。これは道に迷ったとしても江戸行きという目的に照らして逆行しすぎているから、稲葉坂でなく犬越峠から鉢伏山の東面を経て坂原に出たのではないかという思いもある。そのあと、大簾から水呑峠を越えたという(『和知の道-むかし物語』)。この水呑峠というのは今の国土地理院の地図に七谷峠と記されている峠で、草尾峠のひとつ西の峠だから、三義人は草尾峠は越えていないことになる。

「旅費は於与岐村の吉崎五左衛門に出してもらい、三人は蓑笠の百姓姿で夜半ひそかに村を出発して山越えで和知に向かった。ところが広野村で道に迷い、草尾峠を越えるべきところを大簾村へ迷い込んでしまった。このいきさつを聞いた時の大簾村庄屋東藤右ヱ門はこの三人の義心に感じ、大焚火をして暖を採らせ、旅装を整えさせ握り飯を用意するなどした後、自ら松明をともして水呑峠へと案内し、前途の成功を祈って送り出した。」
……『和知の道-むかし物語』64頁


■草尾について

『和知の古老談』に、

「草尾峠あたりでも見たりするのに-まあこれは私見やけど、和知に住んどった祖先いうようなもんは、まあ塩瀬でも草尾でも粟ン谷でも大成でも、兎に角、山奥の高いとこに住いを作ったもんじゃろうと思いますわな。それから、序々に序々に下の方へ下ってきて田んぼを拓いたり、川添いのよい場所に暮らすようになったんやと思います。」

とある。

草尾の集落跡は標高150~200mの間にあるがその上流、標高300m附近まで、谷底には石垣で区切られた細かい水田跡が残っている。

『和知の道-むかし物語』に「草尾にかつて七戸の集落があり」とあるが、坂口慶治「丹波高地東部における廃村化と耕地荒廃の過程」『地理学評論』47(1)1974によると、草尾は「明治初期には8戸を数えた」。

坂口1974によるとその後の経過は以下のようである。
1889年……一戸が廃絶(→戸数7戸)
1921年……一戸が広野に移転(→戸数6戸)
1943年……一戸が京都市に移転(→戸数5戸)
1946年……一戸が京都市に移転(→戸数4戸)
1950年……一戸が和知駅前に移転(→戸数3戸)
1951年……一戸が廃絶(→戸数2戸)
1966年……二戸が離村し町営住宅に移転(→廃村)

□で戸数を示すと大体以下のようになるはずである。
1888□□□□□□□□
1889□□□□□□□
1890□□□□□□□
1891□□□□□□□
1892□□□□□□□
1893□□□□□□□
1894□□□□□□□
1895□□□□□□□
1896□□□□□□□
1897□□□□□□□
1898□□□□□□□
1899□□□□□□□
1900□□□□□□□
1901□□□□□□□
1902□□□□□□□
1903□□□□□□□
1904□□□□□□□
1905□□□□□□□
1906□□□□□□□
1907□□□□□□□
1908□□□□□□□
1909□□□□□□□
1910□□□□□□□
1911□□□□□□□
1912□□□□□□□
1913□□□□□□□
1914□□□□□□□
1915□□□□□□□
1916□□□□□□□
1917□□□□□□□
1918□□□□□□□
1919□□□□□□□
1920□□□□□□□
1921□□□□□□
1922□□□□□□
1923□□□□□□
1924□□□□□□
1925□□□□□□
1926□□□□□□
1927□□□□□□
1928□□□□□□
1929□□□□□□
1930□□□□□□
1931□□□□□□
1932□□□□□□
1933□□□□□□
1934□□□□□□
1935□□□□□□
1936□□□□□□
1937□□□□□□
1938□□□□□□
1939□□□□□□
1940□□□□□□
1941□□□□□□
1942□□□□□□
1943□□□□□
1944□□□□□
1945□□□□□
1946□□□□
1947□□□□
1948□□□□
1949□□□□
1950□□□
1951□□
1952□□
1953□□
1954□□
1955□□
1956□□
1957□□
1958□□
1959□□
1960□□
1961


■道標について

和知には「右くさを左わち」という道標があった。この道標は、

「今、綾部のどこや料理屋へ行っとるわ」
……和知町教育委員会発行『和知の古老談』[1987]53頁

「現在は、綾部市内某旅館の庭に眠っている」
……和知町教育委員会『和知の道-むかし物語』[2002]66~67頁

とのことである。『和知の道-むかし物語』や『和知町史第一巻』にはこの道標の写真が掲載されている。