京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

洞峠訪問01

~綾部側の道を中心として~


 

 

 

 

 

 

洞峠

地図を見ると洞峠を越えた向こう側に少し特徴的な地形がある。

「水源の里」古屋は柿が色づいて秋の色。

洞峠へは林道終点からやや先、石仏の少しだけ奥から右に切り返して取りつく。

山腹の斜面を這い上がる道である。尾根を西側に回り込んでから東に推移して次の尾根を登る。

東に推移する地点は、谷からの堆積物が尾根の突起にぶつかる面白い地形となっている。

簡単な石積がありその中に形状も明確でないが石柱がある。

ゆっくり歩いたが40分ほどで峠に達した。峠の標高自体は大栗峠と大差ないけれども、取りつきからの標高差が大栗峠は大まかに450m、洞峠は250mなので体感としては早い。

『丹波負笈録』に「上林草賀部村奥前坂峠左右峰限桑田郡相野洞村境 洞へ二里」。前坂という呼び名もあったのだろうか?

『北山の峠』の写真では、峠は笹の中に細い落葉の道が越えている蕭々とした和風の風景だが、現在は開けた感じとなっている。

峠の美山側は深い溝があるが、これは単に谷ではなくて旧道である。新道は東側に振っている。炭焼の跡か、石積みがある。

洞の側は、谷の上流は緩やかで、袋状の地形だが、ある地点を境として浸食が急になっている。

傾斜の変わる地点は、高千穂のような峡谷である。

ゆるやかだった谷川がストンと滝になって落ち、対岸は数十メートルもあるような絶壁になっている。

この地点に石仏がある。その前は岩盤がくり抜いてあって道になっている。

石仏の文化元年甲子は1804年のはずである。

原初の自然地形(岩盤が道として開削されていない)を心の目で復元してみると……。最初にここを通った人は怖かっただろう。まさに滝だから。

そこから峠道は谷を離れて高巻きの道となっている。この谷の下部は等高線が非常に密な急斜面である。濡れた石や木橋は滑りやすい。鹿を見たのを区切りとして引き返した。

洞の語源についての議論は、下記アドレス参照。
http://www.kyoto-yamanokai.jp/stage_7_nisio2_3.html

「丹波志桑田記」(京都府立総合資料館蔵の写し)によると、「桑田郡寺院之部」北桑田郡松尾村の成願寺のところに、「本尊弥勒菩薩並ニ四天王ノ像有往古洞村ノ奥洞坂ノ向フニ聖ヶ滝トテ四十八滝アリ其滝ヨリ夜々光ヲ発ス里民是ヲ恐レテ通路無リシニ其頃大和国橘寺ヨリヱンノウ坊當寺ニ移住シ玉ヒ此ヨリ北ノ方ニ当テ霊仏ノ埋レ在スト霊夢ニ依テ彼光明ヲ慕テ此尊像ヲ得則成願寺ニ安置有シ本尊ト云于時大化年中也ト云々」とある。

峠から西、綾部美山和知三市町の境界点に寄ったが途中で針金につまづいた。「戦後この付近で牛が放牧されていたという。峠を挟んで両側の尾根に木に打ちつけられた針金の柵が残っているはずである」(北山の峠(中))という針金かどうか。いずれにしても、洞谷の下半分は人が通りにくいようなきつさであるに対して、上半分は、牛の放牧が話題になるような大らかな地形である。

そのうえ、牛の放牧場の前はなんとスキー場があった。『ふるさと鶴ヶ岡』1990(438頁~)によれば、この地に洞スキー場(鶴ヶ岡スキー場)が出来たのは大正11年(1922)。ヒュッテもあった。「洞の人家から約三キロの登路」とあり地図も描かれているから、洞峠の谷の上部に間違いない。このスキー場に関する記述は、「戦後、この附近一帯が和牛の放牧場となったのである」と結ばれている(洞スキー場については『美山町誌(下)』395頁も参照のこと)。

古屋への帰り道、峠の下部で旧道と新道が交錯している。峠からの下りは30分程度であった。やや上流にある栃の木(綾部の古木名木100選87)を見てから古屋に降りた。