京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

洞峠訪問02

~美山側の道を中心として~


 

 

 

 

 

 

 

 

洞峠・古屋側の石の厨子

前回、古屋から洞峠を越えたが、余裕もなかったことから中途で引き返した。美山側の道は滝を過ぎたあたりで、迫をまたぐ部分が崩落していた。

今回は洞まで降りて戻ってくることが目的であった。

古屋の奥、石仏小屋のある洞峠道の取り付きは標高400メートル弱のはずで、峠は660メートルほどだから、取り付きから峠までの標高差は大雑把に260メートルほどだろう。一方、洞との標高差は350メートルほどである。

道は尾根の西北側を何度も切り返しながら上っていく。時に道の分流がある。

標高500メートル付近で尾根の窪みをまたぐと道の感じが変わる。

四角く組立てられた石板のなかに摩耗した石仏のような石がある。

『北山の峠』(中)に、

「少し下ると路傍の落葉の中に可愛らしい石室を見る。五〇センチ四方くらいの小さなものなので石の厨子と云った方がよいかもしれないが、苔むして古く気づかずに通り過ぎてしまうほど自然に同化している。中には石柱が置かれているが、多分仏様が彫ってあったのだろう。摩滅して形はなくとも仏様だとわかるのである。これはもう仏様でも石柱でもなく、この峠を越えた多くの旅人の祈りの凝集というものかもしれない。」(136頁)

と記されている「石の厨子」である。

『北山の峠』にある洞峠の写真は蕭々とした深い笹の中の道であるが、今は一変して開けた空間となっている。

峠の美山側は深い旧道が谷のように南へ降っているが、現在の道は東側へ大きく回りこんで降るようになっている。旧道はまもなく現在の道と合流する。

スキー場になったり(『ふるさと鶴ヶ岡』)牛の放牧場になったり(『ふるさと鶴ヶ岡』『北山の峠』)したこともあるなだらかな傾斜の空間で、炭焼の跡や崩壊した小屋などがある。

やがて谷川が音を立てて流れるようになり、右岸に岩が迫ってくると、巨岩の下に文化元年の石仏のある滝の地点である。

石仏の前の道は岩盤を雨樋状にくり抜いて作られている。

谷が急に落ち込んでいるため、この地点から道は谷に沿うてくだらない。一定の勾配を維持して左岸を這っていく。

以前、崩落していた迫の地点は新しい木橋で補修してあった。

進んでいくと「洞峠」という看板があり、細く新しい感じの道が分岐して植林の中へ降りていく。

『北山の峠』(中)に、「林道終点から杉林の中をジグザグに急登してきた道が合してくる」(135頁)と書いてあるのがこの道であろう。

峠道は直進であるので進むと、右手の展望がひらけ、はるか下に滝が白く長く落下している。

『ふるさと鶴ヶ岡』(1990年)に引用(440頁~)されている小林慶太郎「鶴ヶ岡スキー場」に以下の記述がある。

「成願寺 [略]寺伝によると、大和国橘寺の僧円能が此地に来り開基したものと言ふ」
「聖ヶ滝 スキー場に至る登り道の対岸に在り、絶壁に懸る数丈の滝を始め大小四十余、春の石楠花、秋紅葉を待って風景絶佳であるが、冬季もこの滝の一部を望み乍らスキー場に達することが出来る。」

一方、「丹波志桑田記」(京都府立総合資料館蔵の写し)の「桑田郡寺院之部」北桑田郡松尾村の成願寺のところに以下の記述がある。

すなわち、「本尊弥勒菩薩並ニ四天王ノ像有往古洞村ノ奥洞坂ノ向フニ聖ヶ滝トテ四十八滝アリ其滝ヨリ夜々光ヲ発ス里民是ヲ恐レテ通路無リシニ其頃大和国橘寺ヨリヱンノウ坊當寺ニ移住シ玉ヒ此ヨリ北ノ方ニ当テ霊仏ノ埋レ在スト霊夢ニ依テ彼光明ヲ慕テ此尊像ヲ得則成願寺ニ安置有シ本尊ト云于時大化年中也ト云々」。

小林の「大和国橘寺の僧円能が此地に来り開基」「聖ヶ滝」「大小四十余」と「丹波志桑田記」の「聖ヶ滝トテ四十八滝アリ」「和国橘寺ヨリヱンノウ坊」は合っている。

小林の「この滝の一部を望み乍らスキー場に達することが出来る」と、ここに述べる洞峠道の対岸の滝は一致していると考えてよいだろう。

さらに進むと迫をまたぐ地点でまた崩落していて、注意深く渡ることが必要である。

文化元年の石仏の地点まで道に沿うていた谷川は今や100メートルほど下である。

道は土の上の道という感じから次第に白い岩の上の道という感じになってくる。

そして山側は現代の林道のように開削されている。

標高点793メートルの真南、標高520メートルの地点で道は西南に突き出た尾根をまたぐ。

この近代的に開削された白い岩の道の曲り角に、「南無大師遍照金剛」の石碑があった。

背面の年号は文政三年。

[場所]
http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.34,135.51&z=15#15/35.340000/135.510000/

『美山町誌 下巻』(2005年)に、下平屋の新兵衛が「文政三年(一八二〇)棚野の豪農内牧長兵衛・長左衛門の二人と出資協力して洞坂に新坂を開削して上林への通路を大きく改善」(288頁)と記されている。

「南無大師遍照金剛」の文政三年は、「出資協力して洞坂に新坂を開削して上林への通路を大きく改善」の文政三年と合致している。

内牧長兵衛は(同名を代々相続しているものかもしれないが)『美山町誌 下巻』303頁に洞組河合村とあるから河合であろう。

従って、この「南無大師遍照金剛」は「洞坂に新坂を開削」の際に設置されたものと推定した。

この文政三年は端なくも、綾部の志賀の登尾峠に紀州の行者八十八が設置した道標の文政三年とも合致している。

道は白いチャート質の岩盤を鋭くカットした近代的な趣のまま続く。

この美山側の道の特徴のひとつは法面にしばしば石積みの補強が施されていることである。

そして標高500メートルより低くなった付近でふと、ヘアピンの切り返しがはじまり、急斜面を降っていく。

谷の遷急点は文化元年の石仏の地点であるが、長らく緩勾配でくだってきた峠道のいわば遷急点はここである。

褶曲したチャート質の岩の断面も見られる。

ヘアピンの切り返しの数は10回である。途中、眼下の緑のなかに洞の村里が揺曳する。

そして『北山の峠』にも記された堰堤の地点に来る。

峠道をたどるには、堰堤のところに降りて林道に出るのではなく、そのまま迫をまたいで林道と平行に進む。

倒木に注意を要するが、道は残っている。

進んでいくと林道の端の近くで峠道は林道に切断され、急に終了して落ち込んでいる。

『北山の峠』では「この古道は以前は村外れからすぐについていたらしいが、現在は崩壊と生え込みとで道跡が失われている」(134頁)と記されている。

ただ少なくとも現状では、「崩壊と生え込みとで道跡が失われている」ということはなく、道は残っている。

逆に洞の側から登る立場で考えると、林道の起点からしばらくは林道工事によって峠道が消滅しているが、林道の北側(右側)に峠道が沿うようになり、林道の右上5~10メートルに峠道が平行しているのを、林道からでも見て取ることができる。やがて堰堤の地点に達して、確かに堰堤から北側に入っても峠道に乗ることができる。

ヘアピンの坂道をたどって「南無大師遍照金剛」まで引き返し、細く突き出た尾根の端まで行ってみる。すると文化元年の石仏の地点のあたりに巨岩が聳えているのを見ることができる。これは石仏の地点の左岸の巨岩であって、石仏の地点には右岸にも左岸にも巨岩が聳えていることを示す。

この地点は突き出た尾根であると同時に、ユリ道の行き着くところ、すなわち滝と岩壁のある文化元年の石仏の地点を遠く見渡すことができ、峠道の途上で自らの位置を確認することができる地点でもある。

石仏の地点に戻り、谷に降りて滝を確認した。

『北山の峠』にあるように5メートル程度の滝が2個あって、それ自体は奇観というほどの高さではない。

ただ両岸に聳える巨岩の存在は圧倒的であって、もし彦龍周興の「西遊藁」にいう「絶頂有瀑布、客路奇観、於此為最」がこの地点のことだとすれば、奇観というのは滝だけではなくて、この見上げるような岩の屏風をも含めた総合的な存在感のことではないかと思えた。

あるいは、道の途中から眼下に見えた洞谷対岸のあの滝である。遠いため小さく見えるが、「瀑布」の語感には合致する。

ここで論点となるのは下平屋の新兵衛、河合の内牧長兵衛らが改修した「新坂」は、それ以前の道を場所は同じまま改善したのか、別の場所に新たに道を開削したのかである。

洞谷は厳しい谷で、何処にでも自由に道をつけられるような地形ではない。したがって何処に道をつけるかは最初からかなり絞られているはずである。

ただ現在見られる峠道は相当な人力を投入して固いチャート質の山肌を開削しており、それ以前はこの固い山肌に道があったのだろうか、近世に開削してはじめて今の道が新たに出来たのではないかという感じもある。

開削工事以前の道と以後の道との関係は特定できないが、岩盤を大規模に削り、一方で石積みを重ねた施工は大規模で、投入された人力と資金の大きさは疑いないもののように思えた。

【文明15年】(1483)
・相国寺の禅僧、彦龍周興が京都から杉坂、洞峠を経て田辺、宮津に行く(「西遊藁」の「五日未午、過二十曲坂、峰回路転、積雪没脛、絶頂有瀑布、客路奇観、於此為最」からの推定)

【享禄4年】(1531)
・「郡境を越えて北桑田郡の川勝光照が侵入し上林の一部を領有」(綾部市史上巻154頁)
棚野の川勝氏が上林に侵入したとすればその経路は洞峠に絞られる。

【永禄12年】(1569)
・里村紹巴が天橋立からの帰路、岸谷から洞峠、宮脇、杉坂を経て京都に帰る(「天橋立紀行」の「あまたの坂をこえて宮のわきと云所に付ぬ」からの推定)

【文化元年】(1804)
・洞峠道の滝の地点の石仏

【文政三年】(1820)
・洞峠道の「南無大師遍照金剛」
・下平屋の新兵衛が「文政三年(一八二〇)棚野の豪農内牧長兵衛・長左衛門の二人と出資協力して洞坂に新坂を開削して上林への通路を大きく改善」(『美山町誌 下巻』2005年、288頁)