京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

小浜藩兵士たちの帰還・1868年


 

 

 

 

 

 

大栗峠

(1)はなればなれの帰還

慶応4年(明治元年)1月、小浜藩は鳥羽・伏見の戦いに幕府側として加わったが敗れた。

小浜藩の兵士たちは「銘々勝手次第」に小浜に帰った。

この「銘々勝手次第」という表現は『小浜市史・通史編下巻』(1998)4頁にある。

『小浜市史・通史編下巻』には

「戦いに巻き込まれた藩兵が、大和から近江へ、あるいは丹波道を名田庄千坂越にと、はなればなれに小浜に帰還した」(3頁)

とも記されている。

ここでいう「名田庄千坂越」というのは、美山の知井坂のことだろう。

ここでも「はなればなれに小浜に帰還した」と記されている。


(2)敗軍の兵たちが通った峠

小浜藩の兵士たちがどこを通って小浜に帰ったか、情報を拾ってみる。

上の千坂越(おそらく知井坂)のほか、「草尾峠」「大栗峠」「上林峠」(ここでの上林峠は仏主と大岩の間の大岩峠でなく老富と関屋の間の峠)「堀越峠」「永谷峠」「海老坂」など、さまざまな情報がある。


【草尾峠】

『和知の古老談』(和知町教育委員会発行、1987)の巻末年表に、

「鳥羽伏見の戦いがおこり、福井小浜藩の落武者多数が、草尾峠や大栗峠を越えて帰藩する」

という記述がある。

まず草尾峠に着目すると、『下和知時報』第一百三十二號(昭和10年9月26日発行)掲載の「郷土研究(その二)草尾峠」(「片山生」の署名)という題の記事に

「明治維新当時鳥羽伏見等の戦に傷いた侍が赤毛布を着て丹後や若狭へ帰るために多数通行したことは古老の話で耳新しいことです。」

とある。

『下和知時報』第一百三十七號(昭和11年2月26日発行、ちなみにこれは二二六事件の日付)掲載の片山生「郷土研究(その六)草尾峠(のこり)」という記事にも、

「鳥羽伏見の役の時負傷した武士等が草尾峠を越へたと云ふ古老の話を前回書きましたが其時草尾峠を越えた武士は幕府方の若狭小浜藩の武士で草尾峠を越へて逃げて来たが山家藩のため撃退され上林谷を若狭小浜へ逃げて帰ったのです」

とある。

「山家藩のため撃退され」に関しては疑問もあるが、和知の古老たちが小浜藩士たちの草尾峠通過の記憶をとどめていたことがわかる。

なお草尾は1966年に廃村となったが、明治初期の時点では8戸があった(坂口慶治「丹波高地東部における廃村化と耕地荒廃の過程」『地理学評論』47(1)1974)。その8戸の住民たちも兵士を目撃したことだろう。

草尾峠を越えたあとは、東南でなく西北に山家に向かうのが自然である。


【大栗峠】

『和知の古老談』では、上引の「草尾峠や大栗峠を越えて帰藩する」のほか、73頁に以下の会話が収録されている。

「昔は、明治前は若狭へ通じる峠街道ですでね。よう通りよったそうですわ。あの鳥羽伏見の戦いに若狭の殿さんが負けいくさで、あの峠をたくさんの落武者つれて通ったちゅう話です。それで、どんな事しられるか分らん言うて、みんな家の大戸をしめて一歩も外へ出るなちゅう御触が出たちゅうて、年寄がよく言うてくれました。」
「怪我した武士も通るんで、恐いもん見たさで大戸をそうっとあけては覗いて見とったいう話も聞きました。」
「それは大栗峠のことですね。」

大栗峠の有名な石仏は慶応元年のものである。慶応4年の時点では、真新しいものであったろう。小浜藩兵士たちは真新しいその石仏の前を過ぎていったのだろう。

峠から志古田に降りたか弓削に降りたかはわからない。ちょうど雪の季節ということから、谷の志古田道よりは尾根の弓削道のほうが歩きやすかったかもしれない。一方で、東の小浜に向かうのだから西の弓削より東の志古田に降りたほうが近いのも確かである。


【上林峠】

『郷土誌青郷』211頁に以下の記述がある。

「若狭と丹波の国境には上林峠があり、交通機関の発達していなかった時代には青郷より京都に通じる最短の道路で重要であった。峠の西方高地は三国嶽で六一六メートル若狭、丹後、丹波の分水点で測量の三角点がある。明治元(一八六八)年鳥羽、伏見の戦には、小浜藩は佐幕派に属したが戦い利あらず敗戦の士が参々伍々赤毛布(ケット)をかぶり人目をしのんでこの峠も越え(本隊は堀越峠)逃げて帰った。現在家庭で使われている毛布は日本には幕末にもたらされ、当初各藩の兵士が防寒用にまとっていたが、この時初めて青郷の住民はオランダより渡来した赤毛布の羅紗を見たという。このようにして丹波街道は、一朝事有る時には中央との連絡は言うに及ばず何かにつけて京都方面との往来が繁しかったことを物語っている。」

これとほぼ同趣旨の記述が、伊藤勇『わかさ高浜史話』(若狭史学会1973)58頁にもある。

最初に示したとおりここでいう上林峠は老富と関屋の間の峠である。

小唐内か市茅野を通って関屋に越える。小唐内のほうが近道であろう。

峠からは日本海が見える。長い敗走の道を経てようやく目にする若狭の海である。

関屋に出たあとは高浜の海岸を小浜に向かったものだろう。


【堀越峠】

上の『郷土誌青郷』に、「本隊は堀越峠」ということが記されていた。棚野坂は使っていないのかという疑問もあるが、ともかく堀越峠か棚野坂のあとは、知井坂の場合と同様、名田庄の谷をくだれば小浜に出ることができる。

『名田庄村誌』(1971)に「明治維新の際の戊辰の役において、官軍と戦い、敗れた小浜藩主酒井忠氏およびその藩兵四百人余が、堀越峠を経て小浜に帰った旨の記録ならびに古老の話がある。」(29頁)とある。

ただ下にも引いているとおり、『小浜市史・通史編下巻』では忠氏が「舞鶴、本郷を経て、十五日に小浜に帰った」(4頁)とあるから、忠氏自身は堀越峠を通っていないのかもしれない。

『北山の峠』は、「堀越峠」の記事のなかで、

「敗軍の将兵を率いた峠越えはさぞやつらかったであろう。その道のりも長く感じられたことであろう。将兵の頭の中は、いつも仰いだ後瀬山の城と懐かしい我が家がある故郷小浜へ、ただそれだけで占められていたにちがいない。勝てば官軍である。どちらが正しくどちらが悪いということはない。それよりも胸を打つのはこの峠が敗者の道であったということである。この峠は丹波と若狭の国境の峠である。この峠に辿りついた将兵の胸を一様に浸した感慨は「ああ、やっと故郷に帰ってきた」という安堵感であったと思う。峠から見える若狭の山波が彼等の目にどれほど身に沁みて美しくまた有難く映ったことか」

と述べている(金久昌業『北山の峠』(中)1979、112頁)。

これは堀越峠に限らず、知井坂から猪鼻峠まで、丹波から若狭への国境を越えたすべての小浜藩兵が感じたことでもあろう。


【知井坂】

上記のとおり、『小浜市史・通史編下巻』3頁にある「戦いに巻き込まれた藩兵が、大和から近江へ、あるいは丹波道を名田庄千坂越にと、はなればなれに小浜に帰還した」の「名田庄千坂越」は、知井坂のことと考えたい。


【永谷峠】

『郷土史大飯』(1971)に「伏見鳥羽の戦と永谷峠」という項目がある。

「伏見鳥羽の戦と永谷峠 慶応二年、鳥羽伏見の戦に、小浜藩は幕府方に属し、山崎、八幡方面に陣を張ったが、官軍に破れて散り散りに逃げ帰った。中には盥に乗って帰った者もあったということである。その敗走の道筋が丹波路で、川上の永谷峠を走った者も多かった。「市石家の系図」に「慶応元年四月二十日八幡警衛御達しに付同二十九日小浜表出立、同五月朔日着陣仕候同年十月二十六日八幡出立、同二十八日帰浜仕り候」と簡単に記している。市石家は大身で当時番頭であった。その分家が明治年間本郷に居住してこの系図を残している。永谷峠を通った中の一人であった。」(64頁)

永谷峠を通ったということは市茅野を通ったということである。

小浜藩兵士の一部分は草尾峠や大栗峠を越え、上林谷を通過したあと、老富から、若狭の関屋(上林峠経由)や川上(永谷峠経由)に越えていったものであろう。

和知の草尾峠のところでは「赤毛布」が出てきたが、ここでは、「盥」という話も出てきた。盥に乗って帰ったというのは、自分の脚では歩けないということで、重傷者であったと推測できる。『和知の古老談』に、「怪我した武士も通るんで」とあった(上記)。

市石家の系図に書かれているというのは慶応元年の話で、鳥羽・伏見の戦いは慶応4年であるが、慶応3~4年の時点で再度出陣していたのだろうか。


【海老坂】

谷口哲『ひよし昔ばなし』(1986)には「ごんどう草鞋を伝えた小浜藩士たち」という記事がある(36~38頁)。

この記事では、「時に譜代(関ヶ原の役以前に徳川家に臣従した大名)であった小浜藩は、旧幕府側に荷担していたが、敗戦となるや、京都を薩長軍におさえられていたため、退路を摂州から天王にとり、八木を経て数日後、この殿村にたどり着いたのである。」(36頁)

と述べ、小浜藩は海老坂を越えたとしている。

ここで小浜藩士たちは草鞋の記憶を残している。

「ここに一つの逸話が古老によって伝えられている。もはや、尾羽打ち枯らした姿の小浜藩士達は、腹をすかしており、小柄、印籠等を米に替えると共に、民家に一夜の宿を乞い、宿泊した。そして、明日の退却にそなえて、ワラを所望し、草鞋作りをはじめた。不安と好奇の目で見守っていた殿村の人達は、彼らの作る草鞋を見てびっくりした。それは自分たちが日頃作りなれた「乳草鞋」ではなく、作製に手間のかかる面倒な「乳」を省いた草鞋であった。そして、なるほどこんな作り方もあるのかと感心した。この草鞋は、「乳草鞋」に対して「ごんどう草鞋」と呼ばれた。(「軍足草鞋」と言ったのを、ごんどうとなまったものではないか-森脇茂三氏談)そしてこれ以後、この村の人達は、作りやすい「ごんどう草鞋」を作るようになったということである。(これは、故藤林相之助氏の証言として残っている。)(『ひよし昔ばなし』38頁)

草鞋の乳というのは、緒を通す輪になった部分のことだろう。

権蔵草鞋というものがあることから、ごんどうを軍足に結びつけるのは頑張りすぎかもしれない。

上に知井坂の情報と堀越峠の情報があったが、海老坂のあと、宮脇から東西に分かれて知井坂や堀越峠を越えたと考えるのが自然である。


(3)「鯖街道」との違い

当時は京都と小浜を結ぶ街道のことを鯖街道とは呼んでいなかっただろうが、通常、鯖街道と呼ばれている一連の道筋と比較すると、この小浜藩兵士の通った一連の峠の位置は西のほうへと偏っている。

京都からであれば、小浜に行くために草尾峠や大栗峠を通ることは考えにくい。

鳥羽・伏見の戦いとはいっても、小浜藩兵士のいた場所は京都よりも西方、淀川沿いから西宮にかけての大坂近辺であったことがあるのだろう。

小浜藩主酒井忠氏は慶応3年12月11日に上京の途につき、慶応4年1月1日に大津に着いた(『小浜市史・通史編下巻』3頁)。1月2日に大津を出て、京都に入らず1月3日に大坂に着いた(同4頁)。

大坂のほか、小浜藩兵士は「摂津西宮札ノ辻、尼崎」「山城橋本関門」にもいた(同4頁)。

「六日夜半、慶喜は大坂城を退去、残された忠氏主従はやむなく『銘々勝手次第』小浜へ帰国することとなった。忠氏は伊丹から丹波道を辿ったが、九日丹波福住で山陰道鎮撫使西園寺公望の軍勢に行き合い、そこに滞留して、朝廷に対し異心のないことと若狭に引き籠り謹慎する旨の謝罪状を呈し、ようやく十二日に帰国を許され、舞鶴、本郷を経て、十五日に小浜に帰った」(同4頁)。

『ひよし昔ばなし』は、「京都を薩長軍におさえられていたため、退路を摂州から天王にとり」と述べていた。

このルートは現在の大阪府池田市と綾部市を結ぶ道、すなわち国道173号線と途中まで重なっている。

水戸天狗党も、京都に行くためであったが岐阜から福井へと迂回したのだった。

大坂や西宮・尼崎から、福住を経たのであれば、兵士たちが草尾峠や大栗峠を通過して小浜に向かったことも理解できる。

小浜に行くために綾部を通ることとなったのは以上のような次第だろう。


(4)小浜藩と官軍側勢力

慶応4年1月4日、西園寺公望は山陰道鎮撫総督に任ぜられ、檄文を発した。

官軍の勢力を避けて西方へと大きく迂回した小浜藩であったが、山陰道鎮撫軍の手が迫っていた。

西園寺公望および小浜藩の動きに関するまとまった記述が、『和知町誌・下巻』(1994)3~8頁にある。

「綾部藩は、鎮撫使京都出発の際、すでに帰順の意を明らかにしており、佐幕的傾向の強かったのは小浜酒井氏と宮津本荘氏であった。」(4頁)
「園部に達したとき、鎮撫使は諜報によってすでに幕軍の敗退を知り、また河内の橋本で戦って敗退した小浜藩兵が、十一日ごろ摂津天王(園部南西)に達するらしいことも知っていた。西園寺はこれを好機として、篠山藩や福知山藩に帰順・出兵を命じ、本営を福住(天王と園部・篠山道の交差点)に移した。十一日には天王に向かって前進、敗退する小浜藩兵を包囲した。『多紀郡郷土史話』などによると、小浜藩主は自ら総督陣営に出頭して恭順の意を示して帰順を許され、藩兵約七〇〇人と播路[ママ。福住の北にある地名は幡路]大芋を出発、帰藩した。藩兵の退路については諸説がある。例えば、船井郡第二区木崎村(現・園部町)村上弥三郎の『日記改帳』には「一月九日当村之中を、若州落武者罷通り」とあり、『ひよし昔ばなし』には「殿村まで落ちのびてきた小浜藩士たちは腹をすかしており、小柄、印籠等を米に替え、民家に一泊、明日の退却にそなえてワラを所望し草鞋を作った」「海老坂を通って帰藩した」ともある。また山家の『菅生家老父感想録』に田辺藩も敗軍の途中、山家城下を通ったが「又会津の侍とて十四五人洋軍服に剣銃を持ちたる者、手前に宿を取る中に老人抜身の槍を持ち、枕元に立てかけ、足音を聞くと直ちに眼を明け実に凄き有様、さて若狭公は途中粟野に泊られ、本宿御昼食となりたり」と記す(『山家史誌』所収)。片山善三郎(和知出身、当時東京)も小浜藩兵が草尾峠を越えて上林谷から若狭に落ち延びたと述べていた(『下和知時報』昭和一一・一〇)。これについて『小浜市史』には記録がないが、藩兵は和知近辺を数隊に分かれて帰藩したことは事実のようである。」(6~7頁)


ここに「天王に向かって前進、敗退する小浜藩兵を包囲した」とある。天王のあたりは特殊な地形であり、小浜藩は袋状の谷に追いつめられたのかもしれない。

この『和知町誌・下巻』の引用のうち、『ひよし昔ばなし』と『下和知時報』についてはすでに引いた。

村上弥三郎の『日記改帳』にあるという「一月九日」は福住で帰国を許されたという1月12日(上記)より早い。

これについては、官軍側の山国隊長が記した『征東日誌』(国書刊行会1980)のこの年1月7日のところに

「今若藩ノ賊兵、鳥羽辺ヨリ脱奔シ来ル」
「前刻若藩脱兵来奔シ、大井川筋ヘ遡リ遁タリト」
「若藩脱兵弐人ヲ捕縛シ来、告テ云、此者農家ニ入、食ヲ乞処ヘ進入セシ処、脱刀シテ以テ一命ヲ乞ヘリト。直ニ本営ヘ護送シ、又其他ノ賊兵山ニ登リ、川ヲ渡リ、閑道ヲ求メテ遁走シ、及暮終ニ其行衛不知、銃二挺ヲ分捕セリ」(10~11頁)

とあることが参考になろう。「捕縛」したのは八木の鳥羽と船枝との間の地点でのことである。

すなわち1月7日以降の時点ですでに小浜藩兵の一部分は八木・園部の付近まで逃走していたのだろう。

また「山ニ登リ、川ヲ渡リ、閑道ヲ求メテ遁走シ、及暮終ニ其行衛不知」という「其他ノ賊兵」が小浜まで生還したとすれば、それは八木・園部が起点となるから、美山の知井坂か棚野坂、堀越峠を越えた可能性が高いだろう。

『ひよし昔ばなし』では小浜藩と山国隊は佐々江の谷できわどいところで正面衝突を免れたとしているが、1月11日に山国隊が再出陣で園部に向かったときは浮井を通っているので、佐々江は通っていないはずである。

ただ山国隊(西軍)の経路は1月12日・13日が園部、14日・15日が福住、16日が檜山で、数日の違いで小浜藩と似た経路をたどったということはいえる。また最初の出陣の際には上記のとおり「若藩脱兵弐人ヲ捕縛」している。

この「脱兵」が「農家ニ入、食ヲ乞」というのは、『ひよし昔ばなし』の「小浜藩士達は、腹をすかしており」と合致している。

慶応4年 山陰道鎮撫軍の動き 小浜藩兵の動き 山国隊の動き
1月4日 西園寺公望が山陰道鎮撫総督となり檄文を発する    
1月7日   「若藩脱兵弐人ヲ捕縛シ来、告テ云、此者農家ニ入、食ヲ乞処ヘ進入セシ処、脱刀シテ以テ一命ヲ乞ヘリト。直ニ本営ヘ護送シ、又其他ノ賊兵山ニ登リ、川ヲ渡リ、閑道ヲ求メテ遁走シ、及暮終ニ其行衛不知、銃二挺ヲ分捕セリ」
……『征東日誌』
「若藩脱兵弐人ヲ捕縛シ来、告テ云、此者農家ニ入、食ヲ乞処ヘ進入セシ処、脱刀シテ以テ一命ヲ乞ヘリト。直ニ本営ヘ護送シ、又其他ノ賊兵山ニ登リ、川ヲ渡リ、閑道ヲ求メテ遁走シ、及暮終ニ其行衛不知、銃二挺ヲ分捕セリ」[一時帰郷]
……『征東日誌』
1月9日 「忠氏は伊丹から丹波道を辿ったが、九日丹波福住で山陰道鎮撫使西園寺公望の軍勢に行き合い」
……『小浜市史・通史編下巻』
「船井郡第二区木崎村(現・園部町)村上弥三郎の『日記改帳』には「一月九日当村之中を、若州落武者罷通り」とあり」
……『和知町誌・下巻』
「忠氏は伊丹から丹波道を辿ったが、九日丹波福住で山陰道鎮撫使西園寺公望の軍勢に行き合い」
……『小浜市史・通史編下巻』
 

1月11日

「河内の橋本で戦って敗退した小浜藩兵が、十一日ごろ摂津天王(園部南西)に達するらしいことも知っていた」 「十一日には天王に向かって前進、敗退する小浜藩兵を包囲した」
……『和知町誌・下巻』

  [再出陣]「浮井村ニテ、既ニ日没」「園部ニ入」
……『征東日誌』
1月12日   「(忠氏は)朝廷に対し異心のないことと若狭に引き籠り謹慎する旨の謝罪状を呈し、ようやく十二日に帰国を許され」
……『小浜市史・通史編下巻』
 
1月14日     「十四日、園部ヲ発シ、福住村綿屋外弐軒ニ於テ宿ス」
……『征東日誌』
1月15日   「(忠氏は)舞鶴、本郷を経て、十五日に小浜に帰った」
……『小浜市史・通史編下巻』
 
1月16日     「早速当地[福住]ヲ引払ヒ、檜山ヘ回旋ス」
……『征東日誌』

(5)山家での小浜藩

『菅生家老父感想録』は『和知町誌・下巻』が記す通り、『山家史誌』(1987)に一部分が引用されている。

小浜藩士は山家の若松屋に宿泊した。若松屋には「若狭本陣」という掲示がなされた。

「竹下権十郎といふ侍、宿割として当若松屋着になり夫より本陣の用意取掛リ名主菅井市郎左衛門、惣代渡辺忠治郎、拙宅へ集合して宿割をなす。之に付竹下氏、拙者に門標を書き呉れと申され、依テ奉書三枚続き竹下の面前ニ於て若狭本陣と認る。其時ハ手が振ひ書きにくかった。是を門柱に張付置く。」
「其日敗北の武者三々五々になり裸馬二十頭計り道を通行す。又会津の侍とて十四五人洋軍服に剣銃を持ちたる者、手前に宿を取る中に老人抜身の槍を持ち、枕元に立てかけ、足音を聞くと直ちに眼を明け実に凄き有様、さて若狭公ハ途中粟野に泊られ、本宿御昼食となりたり。是に依て宿泊の用意無になりたる為、半旅宿を請求したるに、後日使者ヲ以て壱朱銀計リ新らしき箱に入れ送られたり。此騒動に上林城下迄、女子供ハ逃支度するもの有たるよし。」(『山家史誌』67頁)

「会津の侍」とあるが、会津と桑名は幕府側であった。会津の侍は、会津へ帰るためであれば日本海側にまわることは遠回りにはなるが、同じ幕府側であった小浜の侍と同様の経路を辿っていたのだろう。

「若狭公ハ途中粟野に泊られ、本宿御昼食となりたり。是に依て宿泊の用意無になり」とある。このことから藩主酒井忠氏とそれに随従した一群は、福住から粟野、草尾峠、山家と来たのだろう。

「十二日に帰国を許され」とすれば、粟野での宿泊はその夜で、山家での「御昼食」は1月13日ではないかという気がする。

もしそうであれば、兵士たちの赤毛布での草尾峠越えは1月12日~1月13日かもしれない。大栗峠越えや老富からの若狭越えも、そして知井や棚野の峠越えも、大きくは違わない頃だろう。

『小浜市史』によると、忠氏は舞鶴、本郷を経て、小浜に帰った(上掲)。ここで舞鶴といえば東舞鶴よりは西舞鶴(田辺)を考えるのが普通のはずで、山家のあとは、横峠を越えたのだろう。

あやべ市民新聞2004.11.15記事「最後の代官忠左衛門日記(9)綾部を通過した落武者たち-小浜藩士や会津藩士が山家で投宿」は、『菅生家老父感想録』のうち『山家史誌』に引用されていない部分を紹介している。

すなわち

「鳥羽・伏見の戦いのあと落武者たちが山家へやって来ると聞いた住民たちは、乱暴な落武者に何かされるのではないかと警戒し、慌てて由良川の渡し舟を止めたり、武器を持って集まったりして対策を練ったが、翌朝には渡し舟を再開する。」(同記事)

とある。

(6)若狭本郷での小浜藩

上記の、忠氏が舞鶴、本郷を経て小浜に帰った件につき、『わかさ名田庄村誌II』は本郷でのエピソードを以下のように伝えている。

「本郷での宿は近在での豪農、渡辺源右エ門宅であった。中村の今川フサ女はそのころ、本郷の某家へ奉公に行っていたが、ある日の夕方仕事から帰ると、友人が誘いに来て、「若狭の殿は京で戦争に負け、逃げて戻らんしたそうな。どんな人か見に行って来うかいな」との話について行くと、殿さんは源右エ門宅の座敷に汚れた手拭いで頬かむりをして俯むいておらんした。縁側から大勢覗き見するのに制止する人もいなかった。「負けると殿さんも値打ちのないものじゃと思ったわ。」フサ女は、昭和十五年、九二歳の高齢で亡くなったが、戊辰戦争の裏話をこのように語っていた。」(『わかさ名田庄村誌II』2004年、326頁)

昭和15年に92歳ということは、今川フサはこの慶応4年1月の時点では20歳くらいだったのだろう。


(7)多種多様なルート

以上のことから、福住に達した小浜藩兵士のうち、その後東の園部に向かった一群と、北の桧山方面に向かった一群とがあったことが推測できる。

園部に向かった一群は、四谷を経て海老坂を越え、美山から若狭をめざしたのだろう。

また北に向かった一群は、粟野から水呑を経て草尾峠を越え、山家から上林谷を遡るか、大栗峠を越えるかしたのだろう。

上林では、「此騒動に上林城下迄、女子供ハ逃支度するもの有たるよし」(『菅生家老父感想録』)ということがあった。和知の「どんな事しられるか分らん言うて、みんな家の大戸をしめて一歩も外へ出るなちゅう御触が出た」(『和知の古老談』)というのと似た状況である。

藩主忠氏は粟野に宿泊し、山家では昼食をして、舞鶴経由で帰国した。

ここで課題となるのは大栗峠を越えた一群のルートである。福住からどこを経て大栗峠に至ったのだろうか。草尾峠を越えたあとで大栗峠を越えるのは不自然だから、おそらく草尾峠は越えていない。

従って中山から升谷、篠原を経て大栗峠を越えた可能性があるのだろうが、残るのは福住と中山との間である。これについては後考としたい。

大栗峠を越えたグループと、山家から上林谷を遡ったグループとの軌跡は、上林の志古田より上流で重なり合う。そして老富以降、若狭の関屋ルートと川上ルートに分かれ、本郷で再び重なり合う。最後に小浜で、園部から美山、名田庄を経たグループと合流する。

ただ、福住を経ていないグループがあるのではないかという気もする。

小浜藩兵士は1月7日に八木の鳥羽と船枝の間、1月9日に園部の木崎で目撃されているが、福住を経たグループであれば、1月12日以降のはずである。

福住から八木に行ったとすると、小浜の方向に照らして、やや東南にもどってしまうことになる。

この小浜藩兵が福住を経て来たのか、そうでなく八幡や枚方近辺で敗走した別行動のグループがあり、亀山(亀岡)方面を経てきたのかは引き続き考えたい。

『征東日誌』に「今若藩ノ賊兵、鳥羽辺ヨリ脱奔シ来ル」とあることは上に見た。

『征東日誌』は征東より何年も経て後からまとめたもので、加筆も繰り返し行なわれている。「鳥羽辺ヨリ脱奔シ来ル」の「鳥羽」は抹消されて「尼崎」と訂正されている(10頁)。

そのため「尼崎」が正しいとして解釈されていることもあるが(水口民次郎『丹波山國隊史』470頁)、実はやはり「鳥羽」だったのではないか。「鳥羽辺ヨリ脱奔シ来ル」グループが、八木で目撃されたのではないかなどとも考えるわけである。

以上のほかに、上記の「大和から近江へ」(『小浜市史・通史編下巻』)という流れもあったとすれば、本当に千々に分かれた逃避行だったことになる。

「藩兵の退路については諸説がある」(『和知町誌・下巻』)のも自然であって、退路は実際に多種多様だったのである。

山家の『菅生家老父感想録』に「裸馬二十頭計り」という記述があった。峠には馬が通りやすい峠もそうでないものもある。また、軍であるから輜重もある。そのようなことも、ルートが分岐する一因だったかもしれない。

大雑把には、小浜藩士は1月10日~15日の間に丹波と若狭の国境を越えて、小浜に還っていったものと思う。

この時期、山に雪がなかったとは考えがたい。雪の中の移動については、彦龍周興の「西遊藁」に「峰回路転、積雪没脛」とあり、野田泉光院の「日本九峯修行日記」に「人ノ足跡ヲ便リニシテ行キ少シニテモ踏違ヘルト雪中ノ谷ニ落入ル事深サシレズ 若過テ落入レバ落命ニモ及ブ事也 脇山ヲ見レバ雪ズリアリ恐ロシキ事薄氷ヲ踏ムガ如シ 念仏三昧ニテ通レリ 以後雪中ニ峠ナド越ユベカラズ」とあるほか、小浜藩と同じ時期に行動した山国隊長の『東征日誌』(上掲)でも、1月16日に福住から檜山に移動した際「雪深キ事、尺許。一隊凍寒ニ堪ヘ兼、薪柴ヲ買求メ、焚火ニ身ヲ護シテ進ム」(16頁)とある。小浜藩の移動も寒さと積雪、飢渇と戦いながらのことであっただろう。


(7)赤毛布の記憶

上に引いたとおり『下和知時報』に

「明治維新当時鳥羽伏見等の戦に傷いた侍が赤毛布を着て丹後や若狭へ帰るために多数通行したことは古老の話で耳新しいことです。」

とあった。草尾峠のタイトルのもとに書いていることから、「赤毛布」の情報は草尾峠に関するものと解するのが自然である。

『郷土誌青郷』にも

「明治元(一八六八)年鳥羽、伏見の戦には、小浜藩は佐幕派に属したが戦い利あらず敗戦の士が参々伍々赤毛布(ケット)をかぶり人目をしのんでこの峠も越え(本隊は堀越峠)逃げて帰った。現在家庭で使われている毛布は日本には幕末にもたらされ、当初各藩の兵士が防寒用にまとっていたが、この時初めて青郷の住民はオランダより渡来した赤毛布の羅紗を見たという。」

とあった。

草尾峠の「赤毛布」の情報は、高浜に伝わる「赤毛布」の情報と合致している。

この赤毛布を、山家や上林の住民も目撃したに違いないと考えることができる。

実際、何鹿郡誌(1926)に、「慶應四年一月三日伏見鳥羽の戦始るや、山家、梅迫、上林は通路に当るを以て、兵馬の往来盛にして、負傷武士の戸板に乗り、赤毛布に覆はれて、田辺、小浜等へ送らるゝ者多かりき。これ本郡にて赤毛布を見たる最初なり。」(212頁)とある。

赤は血の色でもある。積雪に覆われた白の季節、血の色の羅紗は鮮烈な印象を残したのかもしれない。

『和知の古老談』に「年寄がよく言うてくれました」とあり、『ひよし昔ばなし』に「古老によって伝えられている」、『下和知時報』に「古老の話で耳新しいことです」とある(上掲)。小浜藩の兵士たちは赤毛布や盥、草鞋、「手が振ひ書きにくかった」などの生々しい記憶を通過地点各地の住民に残しながら、綾部を含む冬の山々を小浜へと必死の思いで還っていったのだろう。