京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

大栗峠 概観

Ooguri-touge Pass


 

 

 

 

 

 

大栗峠

上林と上粟野を結ぶ大栗峠。田辺と京都を結ぶ街道筋でもあったのだろう。

『丹波負笈録』には

「弓削村……大栗嶺船井郡和知河合村迄二里」「上林山田村大栗峠左右峰限船井郡和知の川合村境 川合へ二里」

とある。

『奥上林村誌』1956に以下の記述がある。

「物資の移動は肩と背に頼る外なく、(牛の利用も亦多かった)従って林産物も木炭と板等に限定されており、其の運搬資金は現金収入の大きな分野を占めていた。例へば大栗峠は高濱から和知への魚掛道として天びん棒が屡々往復した。」(149頁)


この峠の上林側には、少なくとも山田ルート、竹原ルート(山田ルートと分岐)、瀬尾谷ルート(弓削ルートと分岐)、弓削ルート、志古田ルートがある。

・山田ルート……『上林風土記 写真集』[2004]p.129(写真)
・竹原ルート……陸地測量部地図
・弓削ルート……金久昌業『北山の峠』(下)[1980]p.74~、北山クラブ『京都 北山百山 レポート集』[1989]p.387~
・志古田ルート……横田和雄『京都府の三角点峰』[1995]p.284~、金久昌業『北山の峠』(下)[1980]p.74~

三つの典型的な環流丘陵のある村々がこの峠と結ばれていることは興味深く感じる。

金久氏の『北山の峠』(下)は大栗峠の弓削ルートについて以下のように描いた。

「この弓削側の尾根道の特長は、道が堂々と立派なことである。整備された立派さではなく、踏み込まれた高い格調と歴史の貫禄である。放置されてから久しいのにそんなに生え込みもせず、道形も殆ど崩れてはいない。中間の突起を越す部分などには道巾が狭くなったりするところもあるが、その他は概ね車馬が行き来したと思われるような大きく掘れ込んだ道が尾根を曲折して貫いている。この道は樹木の美よりも道そのものによさがある道である。道の精髄というのだろうか。北山では根来坂や近江坂などにその類を見るが、この道はそれ以上の圧巻を示す。根来坂や近江坂などの掘れ込みは背丈の一・五倍くらいだが、この道は所によってはその三倍くらい掘れ込んでいる。文献がなくても口伝がなくても、如何にこの道が古くから重要な道だったかを否や応なく思い知らされる道である。文献や口伝には誤りがあるかもしれない。しかしこの道の深く掘れ込んだ風格ある重さには誤りようがない。これ程確かな実態が他にあるだろうか。こんな道を歩くと、少々生え込んではいてもお膳立てされ整備された道を歩くよりも心が締まるような感嘆を覚えるのである。」(p.82-83)

この道がまだ生きているなら……。

大町近辺から南に、大栗峠の稜線が遠望される。あの緑の尾根に、深く掘られた道が息づいているのだろうか。

大栗峠への往路は谷道である志古田ルートを試み、山田ルートを意識しつつ弓削ルートを下降することにした。


(志古田から大栗峠)

志古田の林道終点から谷を詰める。道の感じが何となく残っているが明瞭ではない。流れに沿って進んでいくと右岸に巨岩があり、このあたりから道が谷を離れる。しかしこの岩の上部で崩落が起きていて安全ではない。実は志古田ルートが這い上がっているこの斜面全体が地滑り地形であり、その末端が再度崩壊しているのである。やはり谷道は自然に還るのが早いのか。切り返しを何度も重ねながら斜面を登っていく。この谷では鹿を何度も目にした。国土地理院の地図では谷底を詰めるようになっているが、等高線の密度の高い、きつい谷であり、実際には右岸の斜面の道である。途中で光明寺や養老山あたりの見える地点がある。

前方に何となく樹の間ごしの光がちらちらと蜃気楼のように揺曳し、まだ標高差はあるものの峠の存在が予感される。植林の間を抜け、やがて最後のシダ原をかき分ければ峠である。


(大栗峠)

峠は落葉樹林のなかで、いわば志古田ルート、弓削ルート、和知ルートから成る三角のロータリー状になっており、その中に有名な石仏がおられる。

 『綾部の古木名木100選~緑と文化の遺産~』綾部自然の会1997の「井関家のクロマツ」(五津合町清水)のところに、

「ここの庭に明治の頃まではモミの大木があった。古株を測ったら幹周が6.2mあったという。古老の話によると、その昔、大栗峠にたどり着いた旅人がこのモミを望んで八左ヱ門のモミが見えたと安堵したという」(116頁)

という記述がある。大栗峠から、清水にあるモミの樹が遠望できたのだろうか。それとも峠から山麓に降りていってからの話か。いずれにしても長い街道を越えてきてようやく田辺まであと一息であることを実感させてくれるモミの樹。印象的な逸話である。

峠といっても弓削ルートに注目すれば最も標高の高い地点ではなく、弓削に行くには若干だが登ることになる。峠から大栗峠の頭(681.4)に寄った。

地質調査所の地質図「舞鶴」では、ちょうど大栗峠と弓削を結ぶラインで地質がずれていて、断層の実線が引いてある(地質調査所「舞鶴」1961)。


(山田ルート)

峠から大栗峠の頭の北を巻く道は雲の上を歩くような浮遊感のあるユリ道である。峠から高度を下げずにユリ道になる点は堀尾峠と同様である。この道はいったん尾根を乗り越したあと西側を巻く。まもなく「南無大師遍照金剛 右ゆげ道 左志ろ下」の石碑(『北山の峠』(下)p.82、『北山百山』p.391)に着く。要所だからこそここにこの石碑がある。

この分岐の左側が山田ルートである。志ろ下の志ろは上林城のことと思われる。『北山百山』ではヤブとしてあるが、やや進んでみたところ歩けなくはなかった。

峠の道標類の銘のなかに山田村の人の寄進という趣旨の文字があることからも、山田ルートが他のルートと同様の重要性をもっていたことは感じられる。標高点582のあたりでこの道は北向きに転じる。そのあたりで引き返して「南無大師遍照金剛」に戻った。「この石碑は一六〇年も経っているのに破損や欠落の兆しも見られない」と『北山の峠』(下)にある通り新品に近い風合いがある。今では二〇〇年近くなっているが、石質がよいのだろうか。道標や石碑は決して軽くない。人々が共同作業で山道を運び上げる光景が脳裏に浮かんだ。

『北山の峠』(下)によれば、「『奥上林村誌』には「今も志古田の山中に『左京道、右弓削』と書いてある石碑が残り」と記されている」(74頁)という。また『上林風土記写真集』(2004)に「大栗峠の道標」として「右 やま 左 わち 京」と刻まれた道標の写真が掲載されている(11頁)。お椀のような形の線画も描かれている興味深いものである。


(弓削ルート)

弓削ルートを下降する。たしかに彫りの深い道が尾根を刻んでいる。尾根を何度も蛇行して刻みながら道の斜度を緩めているようである。緩斜面になっても、川のように掘れた道がうねっている。大蛇か龍が山に張り付いているような存在感を感じる。時に山内付近の上林谷や、東側の山並の展望が開ける。

道は長い蛇行を繰り返し、瀬尾谷への道を左に分ける。一部分、崩落のためか道が細くなっている箇所がある。東斜面を降りて弓削に至る。

志古田ルートは谷筋を取り違える可能性もなくはないがそれ以上に崩落の問題があった(要注意-あえていえば安全第一の点からは避けたほうがよいのではないか)。弓削ルートでは「北山の峠」に書かれた貫禄のある道を確認することができた。この峠が交通の要衝であったことは地図からもわかるが、今に残る道の姿からも感じ取ることができた。

それにしても述べ何万人の人がこの峠を往還したのだろうか。どのようにしてこの道が刻まれたのだろうか。水は谷を刻み人は道を刻む。もちろん道普請の賜でもあろうが、点滴石を穿つように、古代からの無数の人の行き来が刻み込んだものと考えるのが何となくしっくり来るようでもある。

下山して上林川のほとりから大栗の山並を見上げると、緑に覆われた深く高い山中に石仏や道標、そして古道が風雪に堪えて息づいていることが、ある種不思議な感覚をともなって実感された。