京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

中世における洞峠の旅人・彦龍周興

Possible Passenger of Hora-touge Pass in the year 1483


 

 

 

 

 

 

洞峠

相国寺の禅僧・彦龍周興の紀行文に出てくる「二十曲坂」が、美山町側における洞峠の別称であることから、彦龍周興の通過したのが洞峠であることを絞り込んだ。

水本邦彦編『京都と京街道-京都・丹波・丹後』(吉川弘文館「街道の日本史32」2002、以下『京都と京街道』)は、「禅僧の詩文集というのは、これまで歴史史料として利用されることはほとんどなかったが、貴重な史料を含んでいることが多い。」として、相国寺の禅僧である彦龍周興(げんりゅうしゅうこう)の詩文集『半陶文集』(紀行文「西遊藁」[さいゆうこう]を含む)を紹介している(230頁)。

今から530年以上前、1483年(文明15年)の旅である。

彦龍周興は南禅寺の僧、文成梵〓(〓は鳥の上に族。ぶんせいぼんさく―読みは『京都と京街道』による)とともに、京都から天橋立に旅した。「西遊藁」はその記録である。

辻善之助『日本佛教史』は、彦龍周興について以下のように紹介している。

「彦龍周興 字は彦龍、名は周興、半陶子と號す。深草の陶瓦を業とする者の子であるによつて、この號を稱し、以て其微賤を忘れざるの意を寓すといふ。長禄二年(一四五八)生る。横川景三の弟子である。少にして文筆に達す。その集を半陶稿といふ。集中、横川景三・月翁周鏡・蘭波景〓(草冠に臣)、桃源瑞仙の為めの代作が多い。以て諸老の間に重ぜられていたことが知られる。また聯句に工で、時人に推重せられ、世に章句彦龍對月舟と稱せられた。月舟は次に叙する壽桂である。延徳三年(一四九一)寂す。壽三十四。人皆其早世を惜んだ。其地位は纔に蔵主に止まるけれども、その文名は嘖々として、叢林の奇才と稱せられた。」
(辻善之助『日本佛教史 第四巻 中世編之三』岩波書店、444~445頁)

『京都と京街道』によれば、「西遊藁」では京都から杉坂を経たことまでの記述があるが、次いで記述は西舞鶴まで飛んでおり、その間の経路は記述されていない。しかし『京都と京街道』は八木町神吉を通過した可能性を示したあと、「綾部・西舞鶴ルートを行く」として、「当時の交通事情から推測すれば、一行は、おそらく現在の国道九号線沿いに檜山(瑞穂町)辺りまで北上し、そこから綾部方面へ抜け、あとは国道二七号線沿いに西舞鶴へと入ったものと思われる」「おそらく、一行は馬などを利用したのではなかろうか」と推定している。

ただしもう少し考えておきたいこともある。『京都と京街道』は里村紹巴も、「橋立からこのルートを逆にたどって帰京している」としている。たしかに天橋立紀行に「すい坂」とあるのは杉坂であろうから、里村紹巴も杉坂は通っているだろう。

しかし天橋立紀行の帰りに里村紹巴が通ったルートは国道27号線・9号線のルートでなく、舞鶴の岸谷から綾部の上林、美山の宮脇を経るものであるはずである。

また彦龍周興についても、神吉に行くのであれば京都から北に杉坂を経るのでなく嵯峨から水尾を経て行けたような気もする。あるいは檜山に行くのであれば、老ノ坂から行けたような気もする。京都から長坂、杉坂へと進んだのであれば、真弓-縁坂峠-山国/周山、もしくは供御飯峠-笠峠-栗尾峠-周山といくのが可能性の高い道ではないのだろうか。そこからは漆谷-神楽坂-鶴ヶ岡-洞峠-鬼住峠-田辺である。

彦龍周興は「西遊藁」で「瀑布」の存在を記録しているが、洞峠には滝がある。少なくとも滝又の滝は街道から少し離れたところにあるから、滝又の滝よりは可能性が高い。

「西遊藁」に「二十曲坂を過ぐ」との記載がある。美山町の側では洞峠のことを二十曲坂ともいう。このことから、『京都と京街道』の見解とは異なるが、彦龍周興と文成梵サクが通過したのは、他所にも二十曲坂が存在する等のことがない限りは、洞峠であろうと絞り込める。

「西遊藁」から関連部分を紹介しておく。

「文卯三月初四日、……去洛里許、有一山村、雑花夾路、問其名則曰杉坂也、予笑曰、無杉一株、而花如此、名実相反、世之常也、是日入丹波……五日未午、過二十曲坂、峰回路転、積雪没脛、絶頂有瀑布、客路奇観、於此為最……丹州有氷室、留雪成氷、六月貢之、疑此山歟、六日晩入丹後、卸笠於大内也、村之西有山寺、曰天台教院……」玉村竹二編『五山文学新集第4巻』東京大学出版会1970

ちなみに1787年に秋里籬島が京都から天橋立に旅したルートは、亀山、園部、檜山、福知山、河守、元伊勢、普甲峠であった。福知山から河守の間は舟に乗っている。貝原益軒が「西北紀行」で天橋立に行ったのも、これと大体同様であった。

洞峠