京は遠ても十八里 ~ 海と都をつなぐ峠を辿り直す

『北山の峠』再訪

'PASSESS IN KITAYAMA' REVISITED

美山・唐戸越のユリ道(仮称)

鬼ヶ城峠 Onigajou-touge Pass

(福知山市泉谷-大江町室尾谷)


 

 

 

 

 

 

鬼ヶ城峠の道

【明治時代の地形図に描かれた鬼ヶ城峠の検討】


鬼ヶ城と烏ヶ岳の山塊を下界から眺めると、二瘤駱駝の背のようなその姿の中間部、やや低くなっているところが鬼ヶ城峠である。この峠はかなり高いところを越える峠だと思える。

峠の鞍部は鬼ヶ城と烏ヶ岳の山頂からは約100メートル低いだけであって、峠越えというよりはほとんど登山の感じを与えるものであり、いくら昔であっても下の平地を迂回したほうが楽だったのではないかという思いも湧く。

鬼ヶ城峠について『大江町誌通史編上巻』は以下のように記す。

「文久二年製版の丹波丹後地図には室尾谷から鬼ヶ城峠を越えて里村に通じる峠道があり、田辺藩絵図には猪崎に至る峠道が記されている。すなわち鬼ヶ城峠である。「猪崎より丹後国南山村迄壱里廿一町三十間、牛馬不通但鬼ヶ城峠国境迄三十四丁四十間」とは、「丹波志」に記すところである。中世までは、由良川右岸には福知山から丹後に通じる道がなかった(「丹波志」)ので、この道が主要路であったと考えられる。幕府の巡検[ママ]使一行もたびたびこの峠を越えて丹後入りをしている。急峻で牛馬も通わない峠ではあったが、歩行の時代にあっては利用度の高い道であったのである。この峠道は今鬼ヶ城の登山道となっている。」(『大江町誌通史編上巻』1983年、16~17頁)

この鬼ヶ城峠について気にかかっていたのは、それがどこからどこへ越える峠かということであった。

現在、池部の庵我小学校のところから烏ヶ岳への車道がついており、鬼ヶ城峠の鞍部を通過して、烏ヶ岳山頂に通じている。そのため一見、鬼ヶ城峠の道は現在の車道と同じ谷についていたのではないかという印象を与えるかもしれない。また峠というものが単純に谷から谷へ越えるものであると仮定すれば、鬼ヶ城峠の鞍部の東側の谷は観音寺の谷であり、西側の谷は池部の谷である。

しかし『丹波志』では、上掲の大江町誌が引用するように「猪崎村ヨリ丹後国南山村迄一里二十一丁三十間牛馬不通但鬼ヶ城峠国境迄三十四丁四十間」(丹波志天田郡巻之三「猪崎村」)とあり、鬼ヶ城峠は南山と猪崎とを結ぶ峠である。

寛政十一年の丹波國大繪圖を見ても、その峠道として描かれたルートの出発点は猪崎である。

また明治26年測図29年製版の陸地測量部二万分一地形図「河守町」「福知山」でも、鬼ヶ城峠の道は南山から猪崎の醍醐寺のところへ越えるものとして描かれている。南山から鬼ヶ城峠に達した道は、峠直下の池部の谷には下らず、南へスライドして尾根をまたぎ、ひとつ隣の猪崎の谷へ降りているのである。

従って鬼ヶ城峠の道は、現在の車道が与える印象をいったん離れ、江戸時代の文献や地図、明治時代の地図が示すように、南山から猪崎へ越えるものとして考える必要があると思えた。

特に峠の西側で、峠直下の谷を下らずスライドして別の谷に降りているであろうことは、峠のあり方として特徴的であった。あとは少しずつ現地確認していくことだった。


(1)鬼ヶ城

和知の先人(「雲水」)は、「身に入(しむ)や鬼が城より吹あらし」という俳諧を詠んだ。

おぐに峠にて西ノ方を見やりて、鬼が城とかいふをきゝて
身に入(しむ)や鬼が城より吹あらし 雲水
(『和知町誌 第一巻』1995年、746-747頁)

『舞鶴市史・通史編(上)』1993年によれば、「瀧洞歴世史」に以下の記述があるという。

「宝永庚寅七年六月十七日 御巡見宮津ヨリ田辺エ御コシトマリ十八日北有路村立玄加兵衛孫兵衛トマリ 十九日鬼ガ城御ラン福知山ヘ御コシ……」(1025頁)

これは1710年6月に巡見使が宮津から田辺を経て北有路に宿泊し、鬼ヶ城を訪れたあと福知山に越えたことを示す。

ここでいう巡見使とは「江戸時代、将軍の代替りごとに幕府から五畿七道の政情・民情視察のため派遣された臨時の使者」(『舞鶴市史・通史編(上)』1993年、1024頁)である。

福知山-田辺-宮津の順路で巡見する場合のルートは、

「鬼ヶ城御境(福知山藩境)-鬼ヶ城登山-室尾谷山観音参詣-南山村-有田村-常津村-尾藤村-千原村-千原村渡場-河守-金屋村境-上野村-北有路村(泊)-北有路村船場-二ヶ村揚場(以上、現大江町)-桑飼下村(小休)-久田美村口-真壁峠(小休)-城屋村-野村寺村-高野由里村-京口番所-田辺(泊)-宮津口番所-上福井村-大船峠(小休)-中山村(小休)-中山村渡場-和江村揚場-石浦村-由良村(昼休)-浜通の-長尾峠御境(小休)-(宮津藩)」(同1026頁)

であった。

これらから、巡見使が鬼ヶ城を訪れていたことがわかる。

また『大江町誌通史編上巻』は諸文書から、田辺藩主が鬼ヶ城を訪れた記録を拾っている(407~408頁)。すなわち、

・明和三[引用注:1766]五代惟成市原で狩 勢子二百 翌日鬼ヶ城登山
・天明六[引用注:1786]宣成 鬼ヶ城登山
・文化六[引用注:1809]七代以成鬼ヶ城登山(田辺孝子伝)
・文化十[引用注:1813]八代節成鬼ヶ城登山 市原鳥狩
(以上、『大江町誌通史編上巻』408頁)

このように歴代の田辺藩主牧野氏も鬼ヶ城に登ることがあった。

この鬼ヶ城山頂を訪ねることから始めた。鬼ヶ城に登ることは初めてではないが、久方ぶりのことであった。

現在の観音寺の一番奥にある本堂の標高は約170メートル。そこからコンクリート舗装の道が谷を詰めている。コンクリート舗装がなくなって右岸の道はまもなく谷を渡り、左岸の道となった。

谷底には段状をなす水田の跡が残っている。道は最初のうち、平たい幅のある古道の感を残しているが、谷を詰めるにつれて掘りが浅くなり、すべりやすい地道となった。

道は植林の間をあがっていく。鬼ヶ城峠は正面左上方である。しかし道は右(北)にスライドしていき、右上方に尾根の樹間越しの光が見えるようになった。左上にあるはずの鬼ヶ城峠からは離れていってしまう。

急傾斜の道をたどると標高420メートル附近で道は支尾根に達し、鬼ヶ城への道は右方へのユリ道となって続いていた。この支尾根に達する地点をここでは仮に「北の乗越し」と呼ぶ。

国土地理院の地図では、点線で示される歩道がこの「北の乗越し」からなぜかいったん別の谷底にくだり、そしてまた登りに転じて鬼ヶ城の山頂へと至るように描かれている。しかし実際にはさすがにそういうことはない。

道は北の乗越から西に緩い傾斜で進み、標高450メートルの鞍部に達したあと、北方向に転じて鬼ヶ城の山頂へと向かっているのである。

蛇行を繰り返す登山道をたどると、人工的な石積みのみられる狭い通路を経て、最初の段状地形に達した。東方に綾部の山々が垣間見えた。

急斜面をヘアピンの細い道で登ると小規模な数段の段状地形のあと、鬼ヶ城の山頂であった。

山頂の木々はほぼ刈り払われており、四方に展望が開けた。

明治11年(1878)の『丹後國加佐郡町村誌』(京都府立総合資料館蔵)の「南山村」の節に、

「鬼ヶ城山 高周詳ナラス村ノ南ニアリ嶺上ヨリ四分シ南ハ丹波國何鹿郡印内村ニ属シ西南ハ天田郡猪崎村ニ属シ西ハ同郡中村ニ属シ北面ハ本村ニ属ス山脈〓(虫偏に廷)蜿シテ四方ニ連亘ス満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ登路一條本村字室谷ヨリ上ル昇リ十七町険ナリ渓水三條アリ共ニ山間ヨリ発注シ北流シテ室谷川水源トナル」

とある。このことから、明治11年頃の鬼ヶ城は「満山樹木ヲ見ス唯柴茅ヲ生スルノミ」であったことがわかる。明治26年測図明治29年製版の陸地測量部二万分一地形図「河守町」でも、鬼ヶ城は草地の記号で覆われている。

このことから、往時も鬼ヶ城山頂からの展望はさほど樹木にさえぎられることなく広がっていたのではないかということを想像した。

西方に和久川の流域が午後の光をうけてしずまり、川面がきらめいている。

『福知山市史』第二巻(1982年)は、「(永禄八年)八月二日、内藤備前守芳雲入道晴(宗)勝、赤井一族と合戦し、和久郷に於て敗北す」という「西田・川勝家譜」の記述を紹介し、「八月二日の「和久郷の決戦」で内藤方は大敗し、総大将宗勝は戦没」したと推定している(224~225頁)。

これによれば内藤備前守宗勝(松永長頼)は1565年に「和久郷に於て敗北」して戦没したことになるが、その和久郷のあたりである。

「守護代内藤宗勝が和久郷で戦死したのは、…[略]…永禄八年八月であるから、備前守貞勝を含む内藤の残党が鬼ヶ城にこもったのは、その直後であろう(『福知山市史』第二巻、485頁)。

厳密な事実関係は別として、仮に内藤の残党が鬼ヶ城にこもったとすれば、内藤宗勝が戦死したという和久郷のあたりは鬼ヶ城からよく見える。「内藤の残党」たちは和久郷のあたりをどのような思いでこの山巓から眺めていただろう、というようなことを思った。

そして和久寺廃寺のあたり。今は鹿島神社が立地するその神社の杜が田園の中に影を落としていた。

鬼ヶ城山頂からの帰り、上記の「北の乗り越し」のところから鬼ヶ城峠のほうへ、水平に近いユリ道が延びていた。この道をたどると植林の間を抜けて、鬼ヶ城峠の鞍部に出た。池部からの車道が円弧状に峠の鞍部をかすめ、烏ヶ岳をめざしてさらに上へと向かっていた。

「北の乗り越し」に戻り、観音寺への道を降りた。「北の乗り越し」から上の道は観光用の登山道の趣があり、一方で北の乗り越しから下の道は植林のあいだを下るすべりやすい地道であって、古道の感じがあまりなかった。どこまでが古道なのか判然としない思いをいだきながら観音寺へと降りた。


(2)猪崎側の道の確認

別の日、猪崎側の道を確認するため、再度観音寺の側から山に入った。

北の乗り越しから、すでに見た道をたどり、鬼ヶ城峠の鞍部に出た。明治時代の陸地測量部地図によれば、峠道は峠の向こう側の谷に降りたあと、左側の尾根へスライドしているはずだった。

しかし峠の向こう側は下生えのある植林に覆われ、峠道は判然としなかった。

そこであらかじめ次善の策として想定しておいたとおり、いったん車道を烏ヶ岳の方向へと登った。

車道を標高480メートル地点までのぼり、そこから西へと延びる尾根(標高点366メートルのある尾根)へとくだるためだった。

車道と別れ、笹の猖獗した斜面を抜けて尾根へと下降していく。この山に転がっている岩石には細かな気泡のようなものがあった。

笹に悩むこともなくなり、100メートルの標高差を下降。古道はあるだろうか?

尾根が中ダルミになってすぐのところに、陸地測量部地図が示す古道があらわれた。標高360メートル。

ここを仮に「南の乗り越し」と呼ぶ。

鬼ヶ城峠の鞍部の附近ではまったく不明だった古道がここでは明確にこの「南の乗り越し」をまたいでいた。


あとは醍醐寺の北方へと延びる谷へ、この尾根の南斜面を下降するだけだった。

この南斜面の道は最初、雑木に覆われて歩きにくいが、よく掘れた古道の形状が残り、見失う心配はなかった。ただしところどころで路肩が崩れ、篠竹に覆われている部分もあって、歩きやすいとはいえなかった。


さらに降りていくと一瞬、道を見失ったように思えた。

よく観察すると古道を載せていたはずの斜面が大規模に崩落していた。

この大規模な崩落をなんとかこなして、再びあらわれた古道をたどる。道は立派さを増し、一間幅の部分が続いたあと、或る部分では二間幅もあろうかと思われるほどだった。


この斜面は急な傾斜であり、道はしきりに蛇行しながらくだっていく。蛇行する部分で道は山肌を大きく削っており、その削られた面が背丈の数倍の高さで、屏風のように立ちはだかっているのだった。


路面は必ずしも滑らかでなく、下方に行くほど、岩石が路面を埋めてくるようになった。そして再び、篠竹の猖獗。

ふと下方に、草の生えた広場のようなものが見えた。林道に出会うには早すぎるようにも思えたが、やはりそれは広場でなく、醍醐寺から延びる林道であり、深い草に覆われているのだった。

標高250メートル。これで鬼ヶ城峠の古道と醍醐寺からの林道がクロスする地点が判明した。林道終点より少し下の地点だった。

林道からの取り付きがわかったため、同じ道を再度登り返して「南の乗り越し」へと戻った。

あとは「南の乗り越し」と鬼ヶ城峠の鞍部との間が問題だった。乗り越しから峠の鞍部へと向かう道はいったん少し、下り気味になりつつ、ほぼ水平に進んでいく。

このまま峠へと導いてくれるかと思うまもなく、道はひどく広くなった。古道との不連続性があり、何か様子が変に思えた。

陸地測量部の地図から想定していた水平なユリ道と重なってはいるが、近代的な機械で造成された林道のような広い道。

山側の法面もハードに削られて岩肌が露出していた。古道をほぼ上書きするかたちで、あらたに道が造成されたに相違なかった。

水平なユリ道は池部から延びる大きな谷の谷底に達した。谷川が音を立てて流れていた。

造成された道は谷川をまたいで右岸を西へ下っていってしまう。ここでは東方へと、峠の鞍部をめざさねばならなかった。

しかし植林のためか、谷の埋積作用のためか、道は事実上不明といってよかった。苦心しながら、下生えのある植林のなかを峠の鞍部に出た。

陸地測量部の地図では峠道は峠の鞍部から直接東北へと、観音寺への谷をくだっている。かなり急な谷であることから、いくら陸地測量部地図とはいっても半信半疑のところがあり、実地確認せねばならなかった。しかし今回はこの谷の下降を見送り、北の乗り越しを経由して観音寺に戻った。


(3)再度、陸地測量部地図に描かれた道の確認

猪崎の側の道を確認したので、あとは醍醐寺から峠を越えることとした。猪崎から醍醐寺への道は緩やかで長いスロープとして醍醐寺に到達している。

醍醐寺から城ヶ谷林道へ。林道がある部分は林道をたどった。そして標高250メートル地点から林道を離れて古道に入る。一度歩いているので感覚はつかみやすかった。

いにしえの巡見使の足音を想像しながら歩いた。

「南の乗り越し」をまたぎ、再度あの水平なユリ道へ。やはり近代的な林道の感覚を感じつつ、谷の本流へと達した。この「林道」は急角度で切り返して谷の右岸を降りていっているが、どこまで行っているかを確認しておくことにした。倒木や篠竹に難渋しながら降りていくと、推測のとおり、この「林道」は烏ヶ岳への車道と合流していた。

引き返して鬼ヶ城峠の鞍部へと遡行する。やはり谷底の道は不明であり、答えのないまま峠の鞍部に出た。植林と時間の経過で道が失われたとするのがひとつの考え方であるが、何かを見落としているかもしれず、今後の課題である。

そしていよいよ峠の鞍部から東北の谷を直接に下降。植林に覆われた斜面に道を見いだすことは困難であったが、そのまま谷を下った。

『丹波志』に「牛馬不通」という険しい道がここを通っていたのだろうか。次第に下っていくにつれて、何となくではあるが、谷に沿ってくだる感触のなかに、ある程度の道幅のようなものが感じられ、根拠はないにしても、倒木に覆われたこの道幅のようなものがもしかすると鬼ヶ城峠の道だったのではないか、少なくとも陸地測量部の描画を信用するかぎりにおいては大きくはずしていないだろう、と思えなくもないのだった。

やがて現在の鬼ヶ城登山道に合流。この現在の登山道を登り返して「北の乗り越し」に出、ユリ道を通って鬼ヶ城峠に戻った。

鬼ヶ城峠から、烏ヶ岳に寄り道した。烏ヶ岳の山頂に出ると特に東南の展望が豁然と開け、由良川が平野のなかを蛇行して流れているのだった。北を見ると赤岩山麓にある高地の集落、西方寺平も見えた。

再び鬼ヶ城峠の鞍部に戻り、道の見いだせない谷を下った。そして「南の乗り越し」へと向かう水平な「林道」へ。

ただ「林道」の周辺をよく見ると、「林道」の数メートル下に、もうひとつの段状の水平面があり、これが「林道」造成前の古道の痕跡ではないか、とも思われた。

「南の乗り越し」を経て尾根の南壁の古道をくだり、醍醐寺に戻った。日暮れの山道は白昼とは異なる淡い暗がりに浸されつつあった。


(4)課題

以上のことから少なくとも猪崎の側の斜面の一部分には明らかな古道が残っており、陸地測量部の描画する道とも一致することから、これが鬼ヶ城峠の道であろうと推定できた。

一方で未確認のこともある。ひとつは峠の鞍部の両側の谷道であり、植林のなかをよく探せば何らかの痕跡があるのかもしれないが、現時点では不明である。

次に一里塚のことがある。丹後国田辺絵図(田辺藩主牧野家文書)に、鬼ヶ城と鬼ヶ城峠が描画されているが、この地図では鬼ヶ城峠の道が赤い線で示され、「壱里塚」が描画されている。

この地図に記された距離情報からすると、一里塚はどちらかというと観音寺に近いあたりにあったようにも思えるが、現時点では不明である。

また、鬼ヶ城峠の道が陸地測量部地形図に描かれた通りだとして、昔の鬼ヶ城への登山道はどうだったか。そして鬼ヶ城峠の道とはどう接続していたか。

さらに、陸地測量部二万分一地形図では、池部から南山に越える峠道も描かれている。それは現在の庵我小学校より北の地点から鬼ヶ城の西南尾根にとりついて尾根をたどり、ここでいう鬼ヶ城峠の西北300メートル、標高450メートルの鞍部で分水界を越えている。

陸地測量部二万分一地形図からすれば、鬼ヶ城と烏ヶ岳の間を越える峠は池部から来るものと猪崎から来るものの二つがあるということになるのかもしれない。

また庵我小学校から東北に延びる谷、すなわち現在の車道のついている谷も大きな谷であるから、何らかの道がついていた可能性はあるだろう。

このようにいくつもの不確実性を残しながらも、ここで確認した猪崎側の南斜面の道は、江戸時代の文献そして特に明治時代の地形図がもたらす情報と合致するものであり、これが鬼ヶ城峠の道であろうと考えたいのである。